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超宗派を掲げる仏教と「本当の仏教」問題

仏教宗派対立

超宗派を掲げる仏教と「本当の仏教」問題

最近の若手仏教僧侶は宗派の垣根というものをあまり感じていないように思う。「超宗派での活動」というような、既存の宗派仏教の枠組みにとらわれない動きも近年よく見聞きする。私自身も少し前に、宗派に関わらず仏教僧侶が集まって仏教の今後について話し合うグループワークに参加した。宗派で対立するなどというのは、「人々を救う」ことを目的とした大乗仏教の理念から考えれば、まったくもってどうでもいい話である。


が、しかし、それでもやはり摩擦は起きるようだ。ある僧侶がこんなことを言っていた。


「先日、他宗派の僧侶が集まって活動をしたあとに懇親会をしたんだけど、ちょっと揉め事が起こった


どんな揉め事だったのかと訊ねると、要は軽い言い争いである。懇親会の席で浄土真宗の僧侶が「本当の仏教を伝えたい」と発言したことが発端だったという。それに別の宗派の僧侶が待ったをかけた。浄土真宗の僧侶は「本当の仏教=浄土真宗の教え」という構図で持論を展開したそうだ。そこまで聞いて、なるほど、それは揉め事に発展してもしょうがないかもしれないなと思った。



本当の仏教とは

そもそも本当の仏教とは何なのか。仏教の「仏」がブッダを示す以上、本当の仏教は「ブッダの教え」以外ではありえない。では「ブッダの教え」とは何なのか。これは『阿含経』に記された言葉を辿ることが答えになるだろう。近代仏教学の研究成果からも、『阿含経』こそがブッダの教説をもっとも原形に近い言葉で伝えている経典なのは明らかで、これに異を唱える仏教徒はいないはずである。仏教の聖典を挙げるとすれば『阿含経』以外にない。


もちろん、宗派によってもっとも重視する経典、いわゆる「所依の経典」や「宗典」というものがそれぞれに存在するのは事実である。それらの経典がその宗派内で『阿含経』よりも重視されるのもまったくもってかまわない。


間違えていけないのは、どの経典を重視するかというのと、ブッダの教えが何であったのかという歴史的事実とは、問題が異なるということである。当然のことだが、ここを強引につなげて「自分の宗派の教えがブッダの本当の教えである」と主張すれば、たちまちに他宗から批判を受けることは避けられない。


仏教宗派はそれぞれに思想が異なっている。一番わかりやすいのが「他力」の浄土系仏教と「自力」の禅系仏教の対比ではないか。両者の特徴を比較すれば、これが本当に同じ仏教なのかと奇妙にすら思えてくる。というか、どう考えても同じではない。


しかし、どのような宗派も「救い」をテーマにしているという一点においては共通している。どのような方法で「救い」をもたらすかは異なっているかもしれないが、とにもかくにも人々の心に安心を芽生えさせ、平穏に生きることを目指すという基本路線を外した仏教(大乗仏教)は存在しないはずである。


浄土真宗のように信仰によってでしか心が救われない人もいる。
禅のように坐禅のなかに心の平穏を見出す人もいる。


人によって気質が異なる以上、「救い」への道もまた人によって異なる。したがって「救い」へのアプローチが多様であるのは、カバーできる範囲を広げるという意味で有益なことである。それは「同じ仏教なのかどうか」と考えるよりも仏教において本質的で本来的なことと言える。


宗派とは、言うなれば自販機に並んだ缶のようなものだ。コーヒーあり、炭酸あり、フルーツジュースあり、お茶あり、コーンスープあり。多種あるからこそ、多くの人が自分に合ったものを選択できる。それだけ多くの人を救える。それが缶であるところの各宗派。別に自販機でなくてフリードリンクでもいい。


コーヒー専門店でやっていこうというこだわり姿勢もいいが、どんな飲み物も提供できるフリードリンクのほうが汎用性は圧倒的に高い。そこに着目した若手僧侶たちが互いに手を取り合い、「自分たちはフリードリンクとして生きていこう」と考え、そこに日本仏教の将来をも見出したとしても、何もおかしなこととは思わない。


しかし、みんな違ってみんないいはずのフリードリンクなのに、たとえばコーヒーあたりが「やっぱり飲み物といったらコーヒーだよね」とコーヒー上位説、あるいはコーヒー正統説などを持ち出せば、たちまち揉め事に発展するのは火を見るよりも明らか。これが「飲み物の基本は水だよね」という発言だったら、問題にはならなかったはずだ。「本当の仏教ってブッダの言説だよね」なら。


私自身は、特に超宗派の活動に身を置こうとは思っていない。どんなものか内情を知りたいといった動機で参加することはあるが、その程度である。そこまでの熱が上がらない一番の理由は、「ブッダの教え」を説けば、それは自ずと超宗派の言葉になっていると考えているからである。


特別な答えを探すのではなく、むしろ答えはシンプル。基本である水を飲むこと。すなわり『阿含経』を読む。


「本当の仏教」はブッダの言葉のなかにしかない。つまりどの宗派も「本当の仏教」ではありえないのだから、自分の宗派こそが「本当の仏教」だという発想はやめたほうがいい。特に超宗派で活動することを志す僧侶であるなら、その意識はフリードリンク参加への最低条件ではないのか。宗派の優劣正誤を論じないことが、超宗派において唯一絶対の鉄の掟であるように思うのだが。


今後、他宗間での対立がさらになくなると、もしかしたら「超宗派vs自宗派」なんていう新たな構図の対立が生まれるかもしれない。超宗派として活動する僧侶が、そうでない僧侶に対して「あいつらは自分の宗派の殻に閉じこもっている保守的な奴だ」というような傲慢な考えを持つ日が来たとしたら、それはフリードリンクが水に対して優越心と敵意を持った日の到来である。もしそんな日が来たらと妄想するとげんなりする。


僧侶のなかには、「自販機の缶である以前に水である」と考える者が一定数いる。誰と組まずとも立場はそもそも超宗派、いや、「仏教」であると。「〇〇宗僧侶」と言わず、自分のことを単に「僧侶」とすれば、もうそれは宗派を超えている。「ブッダの徒」だ。


くれぐれも、愚かな対立だけは起きないでほしいと願っている。