桃水雲渓 ~乞食として生きた禅僧~
江戸初期の時代に、桃水雲渓(とうすい・うんけい)という禅僧がいた。
現在の福岡県に生まれた人物で、子どもの頃に出家し、20歳を過ぎた頃から諸国を行脚するようになり、多くの禅師に歴参した禅僧である。
桃水はいくつかの寺院の住職を勤めたのだが、島原の禅林寺での勤めを最後に出奔して乞食に身を投じ、以後寺院での僧侶としての生活には戻らなかった。
晩年を乞食として生きることに志したのである。
そのような人生を指して、世間の人々は後に桃水のことを「乞食桃水」と呼ぶようになった。
畑に肥をまく
桃水にまつわる逸話は、やはり乞食になってからのものが多いが、それ以前の話もある。
たとえば桃水が熊本の流長院で修行をしていたときのこと、ある日桃水は肥たごを担いで畑に肥をまいていた。
すると、その姿を見た住職が桃水に声をかけた。
「これ、桃水。清浄であるべき僧侶が、そのような汚れた仕事をしておってはいかん。早くやめなさい」
しかし桃水は住職にこう返事をした。
「肥が汚くて触れてはいかんのであれば、大便をしても尻を拭うことはできません。
けれどもその手で仏様に手を合わせても、仏様は嫌だとはおっしゃりません。
畑に肥をまけば多少は汚れもしましょう。しかしそれで心が汚れるわけではありません。
第一、肥をまかなければ野菜が育ちませんよ」
汚いと言われる肥(糞)を、誰もが自分の腹のなかにしまっている。それが人間である。
人間のことを「糞の入れ物」と見て「糞袋」とよぶハード・パンチな言葉があるが、たしかに人間の体というのは糞を包んだ袋みたいなもので、糞が汚いというならその汚い糞を包んでいる自分だって汚いはず。
それにも関わらず、自分は清浄で、糞は汚いとして嫌うとは、一体どういう了見なのか。
糞を見て自分を見ないことのあべこべを鮮やかに喝破した桃水。
こういうことをさらりと言えるところに、凄味を感じずにはいられない。
乞食桃水
島原の禅林寺に住するようになり、持ち前の禅機を発揮して勝れたる評判とともに名声が広まった桃水であったが、5年ほど経った頃に突如として姿を消してしまう。
ある日突然寺院からいなくなったのだ。
弟子の誰もが桃水の行方を知らず、辺りを捜索しても見つからない。
そこで2人の弟子が桃水を探し出すために諸方へと旅立つこととなった。
手分けして桃水を探していた2人のうち、1人はやがて京都にまで足を運んだ。
そしてある日、東山のあたりを捜索していたとき、乞食の集団を目にした。
何気なくその集団に目をやっていると、そのなかに乞食仲間と談笑している桃水がいた。
弟子は驚いて桃水のもとに駆け寄った。
しかし、髪の毛はボサボサにのび、ボロをまとった憐れな姿を見るにつけ言葉が出ず、ようやく師を見つけ出した喜びも相まって、ただ涙がこぼれるだけだった。
しかし桃水は、
「よくもまあ、こんなところまでやってきたもんじゃ。まったく。
誰とも会う気はないから、さっさと帰りなさい」
と、弟子を意に介する様子もなく、呆れたように告げて歩き出した。
帰れと言われて帰るわけにはいかず、弟子は桃水の後を追った。
弟子は前を歩く桃水に向かって、「どうか傍で仕えさせてください」と懇願したが、桃水は振り返ることもなく、ただ
「無用じゃ」
と答えるだけだった。
しばらく歩いたのち、桃水は急に振り向いて弟子に告げた。
「無用と言っておるのがわからんか。
お前さんとわしとでは境涯が違うのだから、わしについてくることなどできん。
無理をしたところで、どうせすぐに諦めるだけじゃ。
だから早う帰りなさい」
しかしそれでも弟子は諦めることなく、むしろ一層強くお伴につくことを懇願した。
それで桃水は仕方なく同行を許したが、どうせ数日で音を上げるだろうと、弟子の志しを本当に受け入れたわけではなかった。
乞食の境涯
明くる日、桃水と弟子が歩いていると、道端に人が倒れているのを見つけた。
駆け寄るとすでに息はなく、風貌からして桃水らと同じく乞食であることがわかった。
遺体は腐敗がはじまっていた。
桃水は弟子に言った。
「少し先に村がある。そこで鍬を借りてきなさい」
「どうなさるのですか?」
「この乞食を埋葬する。同じ乞食仲間であるし、このままでは臭って通行人に迷惑もかかろう」
弟子はすぐに駆けていき村人から鍬を借りてきた。
すると桃水は自ら鍬を手に取り穴を掘り、乞食を丁重に埋葬した。
「可哀想な乞食ですね」
弟子がそう呟くと、桃水はこう言って聞かせた。
「どうしてこの乞食だけが可哀想なものか。
将軍であろうと乞食であろうと、人間は誰もが死ぬ。
生まれ出たときには何も持たず、死にゆくときもまた何も持たずに逝く。
将軍や金持ちの死は別だと思うのはじつに愚かな考えじゃ」
桃水はそう言い終わると、倒れていた乞食の枕元にあった食べ残しの雑炊のようなものを手に取り、食べた。
「これはうまい。お前もいただきなさい」
手渡された椀の中には、雑炊というよりも反吐(へど)に近いものが入っていた。
到底食べ物とは思えなかったが、師匠のお伴をすると懇願したのは弟子本人である。
気持ち悪さをこらえて一匙すくって恐る恐る口の中へと入れた。
吐き気をもよおしながらも必死で飲み込もうとする弟子の姿をみて、桃水は残りの雑炊をすべてきれいに平らげてしまった。
どうにか雑炊を飲み込んだ弟子であったが、体は正直で、今食べたものが体内にとどまることを強烈に拒絶した。
そしてとうとう我慢しきれなくなって、飲み込んだものをすべて吐き出してしまい、そのまま力なく道端に座り込んだ。
「だから言ったじゃろう。わしについてくることなどできんと。
お前さんとわしとでは境涯が違うんじゃ。
これ以後はわしの後を追うのではなく、仏国寺の高泉和尚のもとで修行に励みなさい。
命をなげうつ覚悟で精進を重ねなさい。
わしのことなど、もう二度と思い出すでないぞ。
さすれば、それこそわしの弟子であったと言えようぞ」
桃水は弟子を突き放し、一介の乞食としてまた歩き出した。
隘けれど宿を借すぞや阿弥陀どの
弟子と別れて再び一人となった桃水は、その後各地を転々として暮らした。
乞食の仲間とともに暮らすこともあり、駕籠かきや馬子(まご)仲間に入るなどの時期もあり、馬沓(うまぐつ)や草鞋を作って売って得た金で食をつなぐような生活をしていたこともあった。
ある時は空き地に藁葺き屋根の小屋をこしらえ、夜はそこで寝るという生活をしていた。
すると桃水と同じような暮らしをしていた仲間の一人が、桃水にこんなことを言ってきた。
「なあ爺さん。あんたの小屋には仏さんがおらんだろう。
仏さんがおらんとキリシタンと思われるというが、なぜ仏さんを置かないんだ?」
「米も炊かないような家じゃから、仏さんも遠慮しとるんじゃよ」
桃水の洒々とした答えに仲間の男は大笑いした。
すると翌日、その話を聞いていた別の男が桃水のもとにやってきて、阿弥陀仏が描かれた掛軸を差し出した。
「仏様がおらんと寂しかろう。これをやるから持仏にしなされ」
「すまんのう。気持ちはありがたいが、わしには無用じゃよ」
桃水は遠慮して掛軸を受け取ろうとはしなかったが、男はかまわずに部屋のなかに軸を掛けて、そのまま去っていった。
「無用じゃと言っておるのに……」
桃水はため息をついたが、せっかくの好意を無下にするわけにもいかず、そのまま壁に掛けておくことにした。
そして消し炭を手に取ると掛軸の上部にこんな狂歌を書き記した。
「隘(せま)けれど宿を貸すぞや阿弥陀どの 後生頼むと思(おぼ)しめすなよ」
狭い家ではあるが宿を貸しましょう、阿弥陀さん。別に後生のお願いのためにあなたを招いたわけではないので、下心があるなどとは思わんでおくれ。
どこまでも世俗から離れた飄々洒脱の禅僧であった。