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年寄りの気持ちがわかるのは……

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年寄りの気持ちがわかるのは……

お盆の時期には檀家さんの家々を廻り、各家の先祖を供養するために経を唱える。いわゆる棚経とよばれる行事を毎年行っている。
精霊棚(盆棚)とよばれるお盆限定の棚をこしらえて、仏壇のなかから位牌等を取り出し、棚の上に安置する。ナスとキュウリに真菰の茎などを差して足の代わりとし、先祖の乗り物となる牛と馬に見立てた可愛らしい精霊馬は、何度見ても微笑ましくなる供物だ。


数年前の夏、ある家で棚経を終え、振り向いたらお婆さんが籐の椅子に座っていた。足が痛くて座布団に座ることができないとのことだった。
本来であればきちんと正座をしてお参りしたいのだけれど、それができず、後ろめたく思っているとのこと。


「ご無礼して申し訳ないねぇ」

何度も頭を下げられた。


申し訳ない、ことなどまったくない。お参りしてくださるだけでありがたい。先祖の皆様だってそう感じているのではないか。
もし可能なものなら、冥界からの回答をお婆さんに届けてさしあげたいくらいだ。


お婆さんの足は、もうほとんど曲がらない。膝が間接の役割を放棄してしまったらしく、自由に歩くこともできなくなってしまった。
だから椅子に座っても足は伸ばしたまま前に投げ出している。
その姿にお婆さん自身が行儀の悪さを感じているようだが、こちらとしては一向にかまわない。たとえば寝たきりの方が寝たままお参りするのは、至極普通のことだろう。


「年をとると体が言うことを聞かんくなるものでねぇ」

ポンポンと膝を叩いてみせる。苦笑いするその笑みの部分に、哀しみが見え隠れしている。
自分の体の一部でありながら、もう自分の意思どおりには動かない足。体とは自分のものではなく、たとえば心臓が意思とは無関係に自ずから拍動を続けるのと同じように、自然の一部であることを感じているのかもしれない。


「小さな頃は大人のことなんてわからんかったもんやけど、大人になっても年寄りのことはわからんかった。年寄りになって、ようやく年寄りの気持ちがわかったなぁ。年はとりたくないわな。あーはっはっ」


神妙な顔をしていたと思ったら、今度は一転して顔を皺くちゃにして自ら発した言葉に爆笑しはじめたお婆さんの、その勢いにつられて私も笑った。笑いながら、それが真実なんだろうなと、内心では妙に納得していた。


年はとりたくない。
その言葉に含まれるお婆さんの気持ちをどれだけ理解しているかと自問しても、おそらく私は何も理解していないのと同じようなものだろう。
それを経験したことがない者にとって、それの本質は決してわからない。泳いだことのない者に、泳ぎの感想を求めてはいけないのと同じである。
年寄りになったことがない私に、年寄りになった気持ちは決してわからない。


それでもなにか、わかる気がするという部分が、少しだけは残されていた。年寄りになった気持ちではない。「年をとってみてはじめて年寄りの気持ちがわかった」というその感覚は、私にも覚えがある。


私だって子どもの頃は大人の気持ちなんてわからなかった。まあ、そんなことをわかろうと思ったことがなかっただけかもしれないが。
ただ、そんな私でも大人になることで、多くのことを学んできた。


十代と二十代と三十代とでは、学ぶことも考えることも質的にずいぶん異なっていた。
子どもが生まれて親になってからは、親の気持ちも幾分かはわかった。
まだ年寄りとよぶほどの年齢には達していないが、年齢によって感じられるものが異なるというお婆さんの言葉には、素直に頷けるものがある。


自分はどうだろうか。年をとりたくないと思っているだろうかと、考えてみる。
なるほど、たしかにお婆さんがいうように、体が衰えて自由に歩くことができなくなるのだとしたら、歩くことのできる健康な体を維持したいという気持ちはある。それが「若い」ことなのだとしたら、若くもありたい。


しかし、それなら若いままでずっと生きていたいかといえば、それもまた勘弁してほしい。
学ぶということは経験するということであり、経験するということは時間を経るということである。
時間を経ることで、人は多くのことを学んでいく。苦いものだったり渋いものだったりと、一見したところ魅力を感じない学びも多いだろうが、それでも甘いばかりの経験よりははるかにマシである。


わからなかったことが、わかるようになる。
知らなかった気持ちを、知っていく。
年をとることは、まさに成長することそのものである。


おそらくはお婆さんもそうであったに違いない。が、それでも「年はとりたくない」と言うのだから、私にとって問題はこれから先なのだろう。
学んでいる、成長している、と感じることができている今の道の感覚が、やがてゆるやかな下り坂に感じられるようになったとき、はたして自分は何を思うのか。成長そのものと思っていた時間の過程が、今度は逆に衰退に感じられるようになったとき、それでも自分は年をとり続けたいと思うだろうか。


「大人になっても年寄りのことはわからんかった。年寄りになって、ようやく年寄りの気持ちがわかった」

お婆さんが知り得た年寄りの境地は、おそらく甘いものではなかったのだと思う。不自由を感じる辛いものだったのだと思う。
けれども、それでも、やはり私はその境地にも立ってみたい。立ってみて、年をとってよかったと思えなくても、年はとりたくないと述懐したお婆さんの気持ちに共感してみたい。本当にそうですよねえ、と私もお婆さんに負けないくらいの哀愁の笑顔で頷きたい。


おそらくはきっと、衰退もまた成長のはずなのである。時間が過去に遡ることがないように、成長もまた一方通行のもの。
朝起きれば、これまでに経験したことのない一日を経験する。たとえそれが同じような毎日の繰り返しに思えても、今日ははじめて経験する一日である。はじめて経験する一日に起こるすべては、はじめて経験することである。同じように思えても同じではない。痛みも含めて、それはやはり新しい学びであり、成長のはずである。


豆が腐ったと思ったら、ほどよい塩梅で納豆となっていたように、苦い経験だってどのように熟し、どのような結果をもたらすかはわからない。
何が良くて、何が悪いか、その思考の前提が覆ることだって時にはあるだろう。
苦味を旨いと感じるようになる味覚の変化だって、相当に不思議なものだ。


「年寄りになって、はじめて年寄りの気持ちがわかった」

お婆さんの言葉が頭の片隅に今も残っている。小さいながらもはっきりと脳内にスペースを陣取っているその言葉が、私は妙に気になってしょうがない。
お婆さんは何を知り得たのだろうか。なぜ「年寄りにはなりたくない」の後に、爆笑したのか。


年をとってみたい。
自然とそんな思いが湧いてくる。
そして、やっぱり、年はとりたくないわな、と私も爆笑してみたい。

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