【禅語】担板漢(たんばんかん)
「担板漢!」という禅語は、端的に言えば「バカ者!」というほどの意味である。
禅の世界では昔からこのような言葉で修行僧を叱ることがあった。
しかし、不思議には感じないだろうか。
どうして「板を担ぐ漢(おとこ)」がお叱りの言葉なのかと。
板を担いだって、別にバカになりはしないのに……。
じつはこの板、幅の広い板なのである。
これを右肩に担いで持ち上げるとどうなるか。
左側は問題なく見えるが、右側は板が邪魔でまったく見えなくなる。
板の向こうから人が歩いてきても、きっと気付かないことだろう。
こんな人が雑踏を歩いていたら周囲の人はさぞ迷惑。
ちゃんと周りを見なさいと叱られてもおかしくはない。
担板漢とはつまり、物事を一面からしか見ていないにもかかわらず、その一面だけでもってすべてを見たかのように知ったかぶり、真実であるところの全体像に眼を向けない愚かさを指す言葉なのである。
修行の未熟な禅僧は、「一面に捉われるな」と師匠から叱られていたということだ。
単純に「バカ者!」と言われては不貞腐れるだけかもしれないが、一面的、一方的に物事を見るなと叱られれば、何か気付くことがあるかもしれない。
そう考えれば、何とも親切な叱り方といえる。
「バカ」が意味するものも、頭が悪いという意味ではないことがよくわかる。
叱るのは、響いてほしいから
禅では叱ることを「打つ」とも言う。
鐘を打つとゴーンと音が響く。
それと同じで、叱った相手に響いてもらいたいから打つ。
叱られたことに不貞腐れるだけや、バカにされたと思って憤る者は、「打っても響かないヤツ」という、まことに不名誉な烙印を押されてしまう。
それは叱られることなんかよりも、もっと情けないことではないか。
そんなことを思われるくらいなら響いてやると、それでは動機がやや不純かもしれないが、響かないよりマシというもの。
世の中には「バカ者!」と叱られると、必要以上にショックを受ける人もいる。
自分の人格を否定されたと思ってしまうからかもしれない。
しかし少なくとも禅において人を叱るとは、「あなたは今バカなことを考えているぞ」「バカな行為をしているぞ」「バカな状態に堕ちているぞ」という警告であって、叱った相手の人格を指してバカ呼ばわりしているのではない。
「お前なんかずっとバカなままだ、どうせ何もできやしない」という意味ではないのである。
だからわざわざ、「担板漢」という言葉を用いて叱ってきた。
重要なのはここなのだ。
なぜ叱るのか。叱るとは何なのか。
叱る方も、叱られる方も、それを誤れば本来の「叱り」にならない。
一面的な見方
近年、食品添加物が問題視されている。
体に有害なのだと。
一方で、貧しい国で飢えに苦しむ人々の命を救ったのも、保存料という名の食品添加物を含んだ食べ物だった。
人の体に害を及ぼすと敬遠される一方で、人の命を救ってきた保存料。
これをどちらか一方からのみ見ていたのでは、円満な理解はいつまでたっても得られない。
自分の立場という一面にのみ立脚していたのでは、物事は多面体であるという根本的な真実すら理解できない。
食品添加物は悪だ。
食品添加物は善だ。
いえいえ、それではどちらの答えも「担板漢!」。
一面に捉われていては、全体像は見えてこない。
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