『正法眼蔵』とは何か
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、日本曹洞宗の開祖である道元禅師が20年以上の歳月を費やして著した一大仏教書である。
その深淵な思想によって、日本仏教史上最高峰に位置する書物と称されることもしばしばだが、「難解さ」という点においても間違いなく抜きん出た実力の書物となっている。
仏教・思想・哲学・作法など、巻ごとのテーマは多岐にわたり、僧侶に限らず万人にとって読み応えのある内容といえるのだが、問題はやはり本当にまあこれがとにかく読み辛い点。
そのために、至上の宝であるにも関わらず、その内容が易しく説かれることもあまりない。
一度でも『正法眼蔵』を読んだことのある方なら誰もが感じているところと思うのだが、この書物はとにかく読み進めるのが大変なのである。
熟語の意味がわからないといった壁にぶつかるのは茶飯事で、「これは本当に日本語か?」と、自らの母国語と同じ言語であるとはなかなか思えない。
意味内容を理解することが難しいのはもちろんだが、それ以前に、まず言葉の壁が相当に分厚いのである。
『正法眼蔵』が難解な理由
なぜこれほどまでに『正法眼蔵』は難解なのか。
道元禅師は『正法眼蔵』を当時主流だった漢文ではなく、仮名で執筆した。
仮名であれば漢文より現代に近づくので読みやすいのではないかと思われるかもしれないが、中国での修行を終えて日本に帰ってきてから執筆をはじめた道元禅師は、当時の日本には馴染みのない言葉を『正法眼蔵』のなかに多用した。
中国で使われていた仏教用語や、自身で生み出した言語表現などを織り交ぜて仮名で文を綴ったのである。
そのため、『正法眼蔵』には門下の曹洞宗僧侶にも馴染みのない言葉が頻出する。
仮名と漢字という日本語の文体をとっているように見えて、その実、「道元語」とでもよぶべき外国語の様相を呈しているのである。
漢字を中途半端に読むことができてしまうだけに、わかりそうでわからないという感覚が起こり、それが近いようで遠い『正法眼蔵』の特徴を引き立てているようにも感じられる。
『正法眼蔵』は「道元語」で書かれている
言語と思想
しかし文字に関していえば、それは仕方のないことだったのかもしれない。
道元禅師は、中国から日本へと伝えた仏教を「正伝の仏法」とよび、一宗一派に関わらない、ブッダが説いた仏教の教えそのものであると説いた。
だから禅師は自らの宗派を禅宗などと名乗ることを非常に嫌った。
自分が伝えたものは仏教そのものであって、それ以上でも以下でもないという主張である。
実際、曹洞宗という名称は道元禅師から数えて4代目にあたる瑩山禅師のころから用いられ始めた名称だと考えられている。
そして道元禅師が伝えた正伝の仏法は、仏教そのものでありながら、日本にはいまだ伝播していなかった。
日本に存在しないものを、日本の言葉・仮名で説明するということは、これは相当に困難な話であろうことは想像に難くない。
日本における新しい(正しい)仏法を宣揚するために『正法眼蔵』を著した道元禅師にとって、まず乗り越えるべきは言葉の問題だったのではないか。
必然的に言葉は駆使され、これまでに存在しない思想を説くためにこれまでに存在しない言葉が用いられた。
つまり、説くためにはまず言葉を生み出す必要があったのだと考えても、なんら不自然ではない。
そうして著述された『正法眼蔵』は、意外と言っては誠に失礼なのだが、驚くほどに言葉の音調が美しかった。名文だった。
不立文字を掲げる禅でありながら、なぜこれほどまでに端正かつ格調高い文章が構築できるのか。このあたりの事柄は非常に面白い。
文字によって悟りに到達しえないことなど百も承知の上で、なおも悟りというものを文字で示してみたいという信念のなせるわざなのか。
最高峰と称されるゆえんは、内容だけではなく間違いなくその文体にもある。
言葉が思考を創り、思考が言葉を創った
じつは親切な『正法眼蔵』
そのように難解な『正法眼蔵』ではあるが、それでも『正法眼蔵』は禅の公案集、たとえば『碧巌録』などの書物とは全く性格が異なっている。
悟りの機縁などを記述した公案集は、読者に内容をわかりやすく伝えようとする配慮は皆無。
それもそのはず、公案集は何かを説明するために著された書物ではなく、あくまでも禅僧の悟りの機縁を記した「記録」としての性格が濃い。
しかし『正法眼蔵』は難解ではあるものの、読者に伝えることを第一の目的として執筆されていることがよくわかる。
言葉こそ難しいが、一巻ごとにテーマを掲げて、そのことを説明しようとする道元禅師の意図が明確に伝わってくる。
それだけに、この書物をどうにかして多くの方に読んでいただける方法はないかと思うのである。
難解ではあるが、親切な書物
『正法眼蔵』に向き合う
僧侶になりたての大学生だった頃に『正法眼蔵』を開いたときは、その内容を理解するどころの話ではなかった。
何も読めない。何もわからない。
禅の書物とはやはり難解なのだ……、一般には理解できない範疇の文章なのだ……、と一瞬で読むことを諦めた。
あれからもう10年以上の年月が経つ。
今であれば多少なり『正法眼蔵』を読めるようになり、読めるのなら訳したい、との思いも湧いてきた。
そしてせっかく訳すのであれば、原文を厳密に訳すというよりも、注釈や補足すべき言葉も文中に組み込んで、専門知識がない方にも『正法眼蔵』を読んでみていただきたいとも思う。
なぜこの書物が「最高峰」と呼ばれているのかを実感していただきたくて。
そんなことを考えたものだから、じっくりと『正法眼蔵』の現代語訳に取り組んでみることにした。
曹洞宗僧侶にとって『正法眼蔵』は避けては通れない関門であるにもかかわらず、避け続けてきた私としては、通るべくして通る道だと思っている。
誰もが読める『正法眼蔵』を目指して現代語訳をする
平易な言葉で現代語訳を
現代語訳に際し、もっとも考慮すべきは平易な言葉で綴ることだと考えている。
現代を生きる誰にでも読むことができる訳でなければ、現代語訳ではないと思うからである。
しかしそれでも、言葉が読めたところで意味が読めないという箇所に出会うことも少なくないと予想される。
そんなときは頭で理解しようとするのではなく、その一文を胸にしまって、生きるなかで「なるほど、そういうことだったのか」と腑に落ちるような体験を待つのも一つの手ではないか。
スムーズに読み進めていけるかどうかはまったくわからない。
そんなことを頭の片隅においていただきながら、現代語訳を読んでいただければ幸いである。
『正法眼蔵』にご興味のある方々、また、かつての私のように読もうとして挫折したことのある方々に、少しでも意味のあるものをお届けできればと思う。
補足
『正法眼蔵』は全100巻を想定されていたと考えられているが、道元禅師はその完成を遂げる前に亡くなられた。
それでも、数え方によっては95巻まで存在し、また確実に『正法眼蔵』であると認定されている75巻本と12巻本を足せば、少なくとも87巻には達する。
そこで参考までに、今回の現代語訳の対象となる『正法眼蔵』75巻本と12巻本のタイトルを以下に列記しておきたい。
75巻本
- 現成公案
- 摩訶般若波羅蜜
- 佛性
- 身心學道
- 即心是佛
- 行佛威儀
- 一顆明珠
- 心不可得
- 古佛心
- 大悟
- 坐禪儀
- 坐禪箴
- 海印三昧
- 空華
- 光明
- 行持
- 恁麼
- 觀音
- 古鏡
- 有時
- 授記
- 全機
- 都機
- 畫餠
- 谿聲山色
- 佛向上事
- 夢中説夢
- 禮拜得髓
- 山水經
- 看經
- 諸惡莫作
- 傳衣
- 道得
- 佛教
- 神通
- 阿羅漢
- 春秋
- 葛藤
- 嗣書
- 栢樹子
- 三界唯心
- 説心説性
- 諸法實相
- 佛道
- 密語
- 無情説法
- 佛經
- 法性
- 陀羅尼
- 洗面
- 面授
- 佛祖
- 梅花
- 洗淨
- 十方
- 見佛
- 遍參
- 眼睛
- 家常
- 三十七品菩提分法
- 龍吟
- 祖師西來意
- 發菩提心
- 優曇華
- 如來全身
- 三昧王三昧
- 轉法輪
- 大修行
- 自證三昧
- 虚空
- 鉢盂
- 安居
- 他心通
- 王索仙陀婆
- 出家
12巻本
- 出家功徳
- 受戒
- 袈裟功徳
- 發菩提心
- 供養諸佛
- 歸依佛法僧寶
- 深信因果
- 三時業
- 四馬
- 四禪比丘
- 一百八法明門
- 八大人覺