【所詮】身近な仏教用語の意味
「努力したら夢は叶うとか言うけれど、所詮、自分には無理なんだ……」
そのような諦めの言葉を自分自身に呟くような瞬間が、哀しいけれども人生にはある。
今はもう肩の力が抜けてしまってそのようなことを思うこともなくなってしまったが、私にだって挫折を味わった経験が何度もあった。
今回ご紹介する仏教用語は、上記の呟きのなかに登場する「所詮」。
「結局」「なんだかんだ言って」「とどのつまり」「畢竟」などなど。
類語はまだ他にもいろいろとあるが、そのような意味で使われている所詮という言葉は、じつは仏教用語なのである。
所詮と能詮
仏教には経典という名の、仏法(教え)を記した書物がいくつもある。
それらの経典には、それぞれ説き示そうとする内容が書かれており、その内容を所詮とよぶのだ。
また、所詮の対をなす言葉として「能詮(のうせん)」という言葉があり、説き示そうとする母体、つまりは経典のほうを能詮という。
たとえば『般若心経』という経典は「空」という概念を説く経典であるから、『般若心経』の所詮は「空」となる。そして『般若心経』が能詮となる。
説かれている内容が、所詮。
説いている母体が、能詮。
両者はいつも1セットで存在する言葉なのである。
所詮という言葉は「詮ずるところ」と読むことができ、やがて「つまるところ」「結局」という言葉と同じ意味で一般用語として用いられるようになっていった。
能詮のほうは普及しなかったようだが、もともとは1セットの言葉であっただけに、片方だけが生き残る結果となったことに一抹の哀れみを感じてしまう。
コンビの芸人の片方だけが売れて、ピンで仕事をこなすようになっていたような状況と、少し似ているかもしれない。
夢の所詮
冒頭の呟きにちょっと戻ってみたい。
「夢が叶う、叶わない」ということを人はよく考えるが、ブッダや数多の僧らは、仏法を伝えるという夢を抱いて生きて、それが叶ったと考えたのだろうか。
何をもって叶ったと判断するのかと考えると、「仏法を伝える」という夢には、はっきりとした合否の境目が存在しない。
どうしたら伝えたと判定されて、どうしたら伝えられていないと判定されるのか、明確な基準などというものが存在しない。
その点、たとえばプロ野球選手になるというような夢なら、プロ野球選手になった時、自分の夢が叶ったと自覚できる。
どんな職業に就きたいとか、どんなものを手に入れたいとか、そういった類いの夢ならはっきりと判別できる。
けれども、ブッダらの夢は、それが果たして叶ったとみていいのか、どうも境目がはっきりとしない。
「夢は叶ったと思いますか?」
そんなふうに問いかけたら、先人らは何と答えるだろうか。
きっと、死ぬまで仏法を説き続けた先人らにとって、夢は叶えるものではなかったのだと思う。
夢は、「叶え続けるもの」だったのではないか。
「叶った」というような過去形になる瞬間がなく、終わりが存在しない夢は、たえず叶え続けることでしか叶わないもの。
そして、叶え続けるという、叶ったのでもなく、叶わなかったのでもない、淡い境界線上の人生を生きて、その境界線上で亡くなっていったのではないか。
終わりがないのだから、叶うとか叶わないとかいう概念を所有していることもなかっただろう。
「夢を追い続ける」という言葉の本質は、もしかしたらここにあるのかもしれない。
夢が叶う叶わないということを言うとき、私がよく考えるのは、夢の所詮は何なのかということである。
自分はその夢を通じて、何を得ようとしていたのか。何を求めていたのか。
夢を求めているようにみえて、人はその夢の先にある「何か」を求めている。
お金であったり、名誉であったり、地位であったり、あるいは自己肯定であったり――。
夢はそんな何かを手に入れる手段である場合が多い。
その夢を通して、知らず知らずのうちに自分が欲しているものが必ず何かあるのだ。
その「何か」は自分の心を掘り下げてみなければわからない。
立ち止まって考えてみなければ、自分でも気付けない。
たまに夢が叶ったのに幸せになれなかったという話も耳にするが、それは夢というものは能詮であるにも関わらず、夢自体が所詮であると思い込んでしまったがゆえの結果なのではないかと思う。
夢とは能詮であり、その夢を通じて求めていたもの、つまり所詮であるところの「何か」が存在する。
夢を叶えるということにおいて重要なのは、むしろその「何か」のほう。
つまり所詮に気が付くことのほうであって、能詮である「夢を叶えること」ではないと私は思う。
だから夢が叶うかどうかは、一番の問題ではない。
本当の問題は、夢の所詮を自覚することなのではないか。
夢を叶えようと思う以前に、そもそもその夢とは自分にとって何なのかと、自分に問うてみるのは大切なことだ。
その問いが欠けてしまっていたなら、仮に夢が叶ったとしても、幸せになれるとは限らないのだから。