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砂遊びの喩え ~執着がなければ苦悩は生じない~

砂遊びの喩え

砂遊びの喩え ~執着がなければ苦悩は生じない~

仏教、つまりはブッダの教えというものは、ブッダ自身の「苦悩」から始まり、苦悩からの脱却を経て、同じように苦悩する人々へ、いかにして救いの道を説くかという段階に至って「仏教」となりました。自分が救われるだけでなく、同じように苦しむ他者に救いの言葉をかけるという点において、仏教は仏教たりえるわけです。


しかし教えを説くといっても、相手の心に届くように説かなければ届かない。一様に救いの方法を説いても、それで必ずしも全員が救われるとは限らない。響く人がいれば、響かない人もいる。要するに、その人に合った「伝え方」が重要だとブッダは考えたわけです。


ブッダは悟りを開いたあとに、5人のかつての修行仲間に最初の説法をしたと言われることが多いのですが、じつはこの5人のもとへと向かっているあいだに道で人と出会い、5人に先駆けて初の説法を試みています。が、残念ながらこの説法はまったく相手の心に響きませんでした。なぜなら、ブッダの言葉が酷く傲慢だったからです。「私は悟りを開いた。私は偉大だ」みたいなことを言って、呆れられてしまうのですね。もしかしたらブッダはこの経験から、伝えることの難しさを学んだのかもしれません。独りよがりの言葉ではいけないと。


この失敗が原因だったのかどうかは不明ですが、ブッダは教えを説く際にある工夫を多用するようになります。その工夫とは、比喩。たとえ話をするのです。話を理解しやすく身近に感じてもらうために、その人に馴染みのある比喩で法を説く。ソーナという弟子に話した「琴の喩え」などは、一般的にも知られた比喩といえるでしょう。あまりにも厳しい修行に邁進するソーナに対して、琴の弦は強く張れば切れてしまい、緩ければ良い音は奏でられない、「調度いい」ことが大切なんだと説いた話。ソーナが琴の名手だったことに掛けて琴で喩えをしたのですが、親切というか、優しいというか、素敵な気遣いです。


仏教というと、その内容が取り沙汰されることが多いですが、内容と同じくらい「伝え方」も大切にすべきでしょう。伝えるとは、伝わっていなければ伝えたことにならないのですから、いかに内容が素晴らしいものであっても宝の持ち腐れなんてことにもなりかねません。言わば教えは食材で、伝え方は調理法。仮に一級品の食材が集まっていても、調理する技術が伴っていなければ美味しい料理を作ることはできません。おっと、ブッダに感化されて比喩を用いてしまいました。


ブッダの教えは、決して難解なものではありません。極めて大雑把に仏教の要点を述べれば、「私たち人間が苦悩する原因は何かに執着をしているから」となります。老に苦悩するのは若さに執着しているから、病に苦悩するのは健康に執着しているから、死に苦悩するのは生に執着しているから。したがって、それらに対して執着する心がなければ、苦悩もまた生じません。


ではこの単純な事実をどうやって伝えようか。理屈だけを述べても、いまいち実感が湧いてこない。心に響くものがない。こんなときに、たとえばブッダは「砂遊び」という事柄を比喩として用いて執着と苦悩の関係を巧みに説いたことがありました。ブッダの教えの中には比喩がたくさん登場し、ブッダと比喩は切っても切り離せない関係とすら言えるのですが、この「砂遊びの喩え」は数ある比喩の中でも特に秀逸なものの1つです。もし私が仏典に登場する比喩のなかでベスト3を選ぶとしたら、確実にランクインします。


「砂遊びの喩え」というのは『阿含経』という経典群の「雑阿含経」というグループの経典に出てくる話です。単純ながらも見過ごしがちな事実を突いた喩えで面白いので、主要部分をご紹介しましょう。


ある時、弟子がブッダに次のような質問をしました。
「ブッダは説法のなかで『衆生』という言葉を使いますが、何をもって衆生と呼んでいるのでしょうか、衆生とはどのような人を指すのでしょうか」と。


そこでブッダが答えます。
「形あるものを欲し、これに執着する人。形のないものを欲し、これに執着する人。そうした執着から離れられないがために苦しむ人々を衆生と呼ぶ。


執着とは、たとえばこういうことである。ここに幾人かの男の子と女の子がいたとしよう。彼らは砂で家を作って遊んでいる。彼らはその砂の家で遊んでいるあいだ、砂の家で楽しむことを止めず、砂の家に執着し、砂の家を放棄することができない。


しかしやがて彼らは砂遊びに飽きて、執着心を失い、楽しむことをやめるだろう。そうなったときには、あれほど執着していた砂の家を今度は自らの手足でバラバラに崩して、すっかり砂の家を放棄してしまう。


それと同じように、形あるもの、形のないものへの執着がなくなれば、それらを失っても苦しむことはない。衆生がそのようにして平穏な心で生きるなら、苦悩することもない」


これが「砂遊びの喩え」の話の趣旨です。いかがでしょう。砂の家に執着心を持っているときに砂の家が失われると苦の感情が生じ、執着心がなくなった状態で砂の家が失われても苦の感情は生じない。つまり、自分が苦悩するかどうかは砂の家が失われるかどうかに起因しているのではなく、自分の心が砂の家に対して執着を起こしているかどうかにあるということ。単純ながらも、盲点だと思いませんか。


私たちは苦という感情を抱くとき、その原因が自分の外側にあると思いがちです。たとえば誰かと喧嘩して気持ちがイライラしたとき、そのイライラの原因は相手にあると思いませんか? でも、イライラとした気持ちを生じているのは相手の心ではなく、あくまでも自分の心です。何があろうと、最終的に感情を抱いているのは自分の心なのです。感情の決定は自分が握っているのですね。


それなら自分の外側で何が起ころうと、自分の心を調えることで常に安楽に生きることが可能なのではないか。ブッダが辿り着いた答えはそこでした。だから仏教ではあらゆる執着から離れて心を調えることに重きを置き、「平穏であること」が目指すべき心の状態であると考えています。嬉しいとか楽しいとか、「快」の感情すら目指さないのです。心は下に振れても上に振れても安らがない。どこに振れようが心が中心の「平」に戻ってくることが目指すべき心の状態だと考えたわけです。


理屈一辺倒では味気ない。感情論では理解がない。十分に整合のとれる論理性と、話を身近に感じられる比喩とによって、ブッダの教えは多くの弟子に伝わっていきました。「砂遊びの喩え」のように話してもらえれば、多くの人が執着と苦悩の関係をイメージできることでしょう。何かが失われることが苦悩の原因なのではなく、執着しているから失われることに苦悩するのだと。このような「伝え方」を怠らなかった点にブッダの魅力があり、『阿含経典』を読んでいて面白いと感じるところでもありますね。