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『修証義』第一章「総序」を現代語訳するとこうなる ~総論としての仏教思想~


『修証義』第一章「総序」を現代語訳するとこうなる

道元禅師が著した孤高の名著、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』。
その『正法眼蔵』から、特に在家向けの言葉を抜粋して文章を再編成し、新たな経典として組み直した『修証義(しゅしょうぎ)』。


そんな『修証義』には道元禅師の思想と仏教観がちりばめられており、読むことさえできれば道元禅にふれることができる。
しかし『修証義』を原文で読むのは、なかなかに難しい。
現代では聞き慣れない言葉や、見たこともない語句のオンパレードなので、現代語訳が不可欠だ。
そこで『修証義』を現代語訳し、その内容を読み進めていきたい。


ここでは『修証義』第一章「総序(そうじょ)」の現代語訳(私訳)を記載するが、そもそも「総序」とは総体的な序文ということであり、『修証義』の大綱や仏教の根本教理が説かれた内容となっている。
すなわち、死生観、人生観、無常観、因果観、業報観といったものが、各節の主題となっている。


それでは道元禅師の言説を訳し、それらが意味するものが何であるのかを確かめていきたい。
なお、『修証義』の概要や編纂に至った経緯などは、下の記事をどうぞ。
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第一節

しょうあきらめ死を明らむるは仏家ぶっけ一大事の因縁なり、生死しょうじの中にほとけあれば生死なし、ただ生死すなわち涅槃ねはんと心得て、 生死としていとうべきもなく、涅槃としてねごうべきもなし、の時初めて生死を離るるぶんあり、ただ一大事因縁と究尽ぐうじんすべし。

現代語訳

生きるとは何なのか、死ぬとは何なのか。
気付けば大地の上に立っていたこの自分という存在の生き死にを明らかにすることが、真実の道を歩もうとする者にとって何よりも重要な問題である。


自分の思いと関係なく生まれ、死ぬこの人生は、思いどおりにならない苦しみで満ちている。
しかしその苦の真実、生きること死ぬことの真実を悟ることができれば、人はこの世を安らかに生きることができる。
だから、人生を嫌わず、この人生のほかに安らかな世界が存在するとも考えず、今生きているこの人生のなかで、幸せをその手で摑んでほしい。
「幸せとは何か」を知ることこそが、人生において究め尽くさなければならないもっとも重要な事柄なのである。

第二節

人身にんしんることかたし、仏法うことまれなり、今我等宿善しゅくぜんの助くるに依りて、すでに受け難き人身を受けたるのみにあらず、遭い難き仏法にたてまつれり、生死しょうじの中の善生ぜんしょう最勝さいしょうしょうなるべし、最勝の善身をいたずらにして露命ろめいを無常の風にまかすることなかれ。

現代語訳

自分が存在していることは、奇跡そのものだ
宇宙の広がりと、悠久なる時間の流れとを考えたとき、今ここに自分が存在していることはまさに奇跡としか言葉で表しようがない。
そして、自分が存在することを奇跡だと感じるこの感覚もまた、人生において決して当たり前に得られるわけではない大切な気付きでもある。


想像してもしきれないほどの多くの縁があって、人は生きている。
そうしたことを感じながら生きることができれば、それもまた素晴らしい生き方だ。
命があるという、このとてつもない不思議を尊ぶことをせず、虚しく生きるようなことがあってはならない。

第三節

無常たのがたし、知らず露命ろめいいかなる道の草にか落ちん、すでわたくしに非ず、命は光陰こういんうつされてしばらくもとどめ難し、紅顔こうがんいづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡しょうせきなし、つらつらかんずる所に往事おうじの再びうべからざる多し、無常たちまちにいたるときは国王大臣親暱しんじつ従僕じゅうぼく妻子珍宝たすくる無し、唯独ただひと黄泉こうせんおもむくのみなり、己に随い行くはただれ善悪業等ごっとうのみなり。

現代語訳

春の若葉が秋には紅葉し、冬に散ってゆくように、あらゆるものは刻々と姿を変えていく。
我々の身体もまたその理のなかに存在し、やがて歳をとり、老いて、死にゆく。
少年だった頃の面影は一体どこへいってしまったのか。
あとかたすら残ってはいない。


今一度、心静かに命について考えてみたい。
ひとたび過ぎ去れば、時は二度と戻らず、命もまた一つしかない
国王や大臣の強大な権力や、親や兄弟や友人との友情や、妻や子どもとの愛情や、あるいは金銀財宝の力をもってしても、その事実は少しも変わらない。
我々はその時が来たら、一人で死にゆくしかないのである。


そんな我々に随ってくるものがあるとすれば、それは生前に為した行いの果報くらいだろう。


第四節

今の世に因果を知らず、業報ごっぽうあきらめず、三世さんぜを知らず善悪をわきまえざる邪見じゃけん党侶ともがらにはぐんすべからず、大凡おおよそ因果の道理歴然れきねんとしてわたくしなし、造悪ぞうあくの者はち、修善しゅぜんの者はのぼる、毫釐ごうりもたがわざるなり、し因果ぼうじてむなしからんが如きは、諸仏しょぶつ出世しゅっせあるべからず、祖師そし西来せいらいあるべからず。

現代語訳

この世界に生きる上で、真実を見ようとしない生き方をする人と同じ考えに立ってはいけない。
無数の縁によって結果が生じることの道理を知らなかったり、何か行動をすれば、その行為によって生じた影響力は形を変えながらも継承され続けていくことや、未来にまで影響力を残すことを理解しなかったり、あるいは善悪について考えようともしない者たちと同じであってはいけない。


数多の縁があって、今がある
この因果の道理は、いつの時代でも、どの国でも、誰にとっても正しい事実だ。
悪事をはたらけば精神は堕し、善行を行えば心は浄らかになる。
それもまた厳然たる事実だ。
もしこれらの真実が存在しなかったなら、ブッダらは真実を悟って仏となることはなかったであろうし、達磨大師がインドから中国へ禅を伝えることもなかっただろう。

第五節

善悪のほう三時さんじあり、一者ひとつには順現報受じゅんげんほうじゅ二者ふたつには順次生受じゅんじしょうじゅ三者みつには順後次受じゅんごじじゅ、これを三時という、仏祖ぶっそどう修習しゅじゅうするには、 の最初よりこの三時の業報ごっぽうならあきらむるなり、しかあらざれば多くあやまりて邪見じゃけんつるなり。ただ邪見に堕つるのみに非ず、悪道あくどうに堕ちて長時ちょうじの苦を受く。

現代語訳

善行、悪行によって生まれた影響力は、自分が生きている間に報いとなって現れることもあれば、死後、子や孫の時代に報いとなって現れることもある。
善いことをすれば、人はあなたに親切に接するだろう。
あなたの子にも親切にするだろう。
あなたの死後、あなたの孫や曾孫にも親切にするだろう。


行いによって生じた影響力は、時代を超えて継承され続けて報いとなる
ブッダらの生き方から大切なことを学ぼうと思ったなら、行いと報いの関係をまず学びなさい。
この道理を知らないものは、ただ知らないというだけでは済まず、安易な気持ちで悪行に手をそめてしまい、その結果として非常につらい報いを受けることになりかねないからである。

第六節

まさに知るべし 今生こんじょう我身わがみ二つ無し、三つ無し、 いたずらに邪見じゃけんに堕ちて虚しく悪業を感得せん、おしからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟じゃしゆいするに依りて悪の報を感得せざるには非ず。

現代語訳

今、はっきりと心に刻むように理解しなさい。
あなたの命は、この宇宙にたった一つしかない尊いものであることを。
あなたの人生は有限なもので、必ず終わりが来ることを。
間違っても、誤った考えに執着して悪の報いを受けるような生き方だけはやめなさい。
それは生き方として、とても悲しいものなのだ。


悪事をはたらきながら、これは悪いことではないと詭弁でもって自分に言い聞かせ、悪を為した報いなど受けるはずもないと思いながら生きる。
そんな生き方のどこに尊さがあるだろうか。
それはもうすでに悪の報いを受けてしまっている。
何が大切かもわからない、考えることもできない、幸せを知らない、そんな虚しい人生を歩いてしまっていることが、すでに最大の悪の報いなのである


↓『修証義』の続き(二章)はこちら↓
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