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「僧衣で運転」反則切符に対する論調に対する違和感

僧衣で運転

「僧衣で運転」反則切符に対する論調に対する違和感

僧衣を着て車の運転をしていた僧侶が「運転操作に支障がある衣服」という理由で交通反則切符(青切符)を切られた問題に関して、いろいろと状況がわかってきたので考察してみたい。


世間(主に仏教界)では「僧衣というだけで違反なんてありえない」とした論調のようだが、そんな単純な話とも思えない。
私も僧侶で他人事ではないので、少々私見を述べさせていただきたい。


事の経緯

まずは経緯やポイントのおさらいから。


  1. 福井県内の40歳代の男性僧侶(浄土真宗本願寺派)が2018年9月、僧衣を着て車を運転し県道を走行していたことを理由に、福井県警に交通反則切符(青切符)を切られた
  2. 福井県の規則では「運転操作に支障がある衣服」での運転を禁じている。具体的には、福井県道路交通法施行細則の「げた、スリッパその他運転操作に支障を及ぼすおそれのある履物または衣服を着用して車両を運転しないこと」の部分に関しての違反。
  3. 福井県警交通指導課は「僧衣が全て違反ではなく、状況による」と説明。違反かどうかの線引きに明確な基準はなく、当時は現場の警察官が男性の着用していた僧衣は運転に支障があると判断した
  4. 男性僧侶が着ていた僧衣は、浄土真宗本願寺派で布袍(ふほう)と呼ばれる法衣。仏教界一般では改良衣と呼ばれており、法要時ではなく移動時などに着ることを主たる目的とした簡略化された僧衣
  5. 反則金6000円の納付について、男性僧侶は「支払ってしまうと、今後僧侶たちの活動が制限されかねない。運転には支障はないことを訴えたい」として、応じていない。
  6. 浄土真宗本願寺派は、「法令は順守するが、僧侶の活動に関わる問題で、受け入れがたい」とコメント。

所感

第一印象というか、最初にこの報道を知った時は正直おどろいた。
まさか僧衣を着て運転することが違反になるとは思ってもみなかった。


おそらく、この報道を知った僧侶の多くは、男性僧侶がどのような僧衣を着ていたのかを知りたいとまず思ったに違いない。
世間一般からは「僧衣」で一括りにされるかもしれないが、僧衣と言っても実際には色々あり、動きやすい僧衣から、動きが極端に制限されるお袈裟まであるからである。


そのような事情があるため、警察から切符を切られるくらいなのだから、さぞかし重装備で運転をしたのだろうと、私はまず思った。
もしかしたらお袈裟を着たまま運転したのかな、と。


実際、お袈裟を着て運転をする可能性もゼロとは言い切れない。
そしてもし、お袈裟を着て運転していて切符を切られたのだとしたら、警察の判断に納得できる部分はあるなと思った。
運転に支障が出る服装とみなされてもしょうがないかな、と。


ところが、男性僧侶が着ていた僧衣は改良衣(布袍)だった。
衝撃を受けたのはこの点である。
僧衣が驚きなのではない。
僧衣が指していたのが改良衣だったことに驚いた。


なぜなら、改良衣とは動きやすさを目的とした、法要には使用することのできない簡略な僧衣だからである。
我々は移動時にはあえて改良衣を着て、到着した先で法要のための僧衣に着替えるという手間をかけている


わざわざ改良衣を着て運転していたのに、その改良衣が違反となると、僧侶は一体何を着ればいいのか
ここを疑問に感じた僧侶は少なくないはず。


改良衣は僧衣ではあるが、袂や裾の形状は着物とほとんど同様であるため、改良衣が違反なら着物もすべて違反となる
もちろん浴衣もアウト。
袂と裾の形状に違いと呼ぶほどの違いはない。


ちなみに、男性僧侶が着ていた改良衣(布袍)とはこれ ⇩ のこと。


僧衣で運転,改良衣
画像引用:みつば和装
  

実際に運転に支障はあるのか?

改良衣で違反とのことで驚いたのは事実だが、だからといって即座に警察の判断を「おかしい」と決めつけるわけでもない。


警察はあくまでも危険を未然に防ぐために取り締まりをしている。
事故が起きて、加害者と被害者が生まれるという悲劇が起きないことが第一の目的である。


もし僧衣の着用によって僅かにでもその危険が生まれているのだとしたら、それは取り締まりの対象となっても仕方のないことと言える。
僧衣を着て運転をしたがために事故が起きたなんてことだけは、なんとしても防ぎたい。


では実際に僧衣を着ると運転に支障が出るのか。
私としては、ほとんど支障ない


がしかし、それは僧衣を着慣れているからほとんど支障がないと感じるのであって、一般の方が僧衣を着て運転をしたら運転しにくいと感じる可能性は十分にあると思われる
もちろんそれは着物全般に言えることでもある。
裾が長いという話なら、ワンピースやスカートにだって当てはまる。


また、「ほとんど支障がない」とはあくまでも個人的な程度の話であって、改良衣と平服とで、自分の運動能力をより発揮できる服装はどちらかと訊かれれば、これは間違いなく平服。


だから「ほとんど」というのは、運転に支障が出るほどの問題があるとは思わないが、かと言って支障が0ではないという意味である。


平服での運動能力を100%とすれば、改良衣着用時の能力は間違いなく100%を下回る。
50%まで下がらずとも、仮に90%まで下がるのだとし、その下がった10%が原因で事故が起きたとすれば、やはり原因は改良衣にあることになる


そしてもし、その10%が原因で人身事故を起こし、相手が亡くなってしまったとしたら。
たとえその可能性が限りなく低いものであっても、これを考慮することはおかしな話ではないだろう。


点数稼ぎだとかで何かと目の敵にされやすい警察だが、警察だって安全を第一に考えて行動をしている。
社会にとって何がベストなのか、それは全員で考えなければわからないことなのだから、我々僧侶も自分たちに都合のいいことばかりを言うべきではない。


もし裾のあたりが気になって一瞬足元を見たとき、子どもが道路に飛び出してきて反応が一瞬遅れたせいで接触事故が起きる可能性だって0ではない。
そうした危険性を排除することを日本の社会がルールとして定めるのであれば、我々も遵守しないわけにはいかない。


これが僧衣だけの取り締まりであれば反発も頷けるが、着物和服全般、あるいは類似該当する洋服もすべて等しく違反として切符を切るというのであれば、受け入れるしかないのではないか。


ただし現状のように基準があまりにも曖昧では混乱をきたすだけなので、そこだけは警察に説明責任を果たしてほしいと思う。


「#僧衣でできるもん」に対する違和感

この「僧衣で運転問題」が起きてから、「僧衣でできるもん」というフレーズで、僧衣のままいかに動くことが可能かをアピールする動画がSNS上で話題となっているようだが、これには違和感を覚えた。
端的に、問題はそこではないだろう。


「どこまでできるか」が問題なのではなく、「どこまでできなくなっているか」が問題なのである。
危険性がどれだけ生まれているかが問題なのである。


僧衣でも50mを8秒で走ることができるから問題ない、のではなくて、平服であれば7秒で走ることができるのに、僧衣だと8秒かかることが問題なのである。
もしその1秒の低下をもたらす僧衣の運動への支障が原因となって事故を起こしてしまったとしたら、どうするのか。


あるいは、袂や袖や裾がある独特の形状をした僧衣には、通常では支障がなくても、思わぬ支障があらわれるかもしれない潜在的な危険性がある
もし袂が何かに引っかかって気をとられた瞬間にハンドル操作を誤ったとしたら、どうするのか。


運転はダンスやジャグリングとは違う。
失敗すれば、人命が失われる可能性がある。
パフォーマンスや遊びではない。


実際、年間に3000人以上の方々が自動車事故で尊い命を落としているという凄まじい現実があるのに、なぜ危険性を省みようとせず、安直な方法で安全性を主張しようとするのか。
なぜパフォーマンスを運転の引き合いに出そうとするのか。


警察が取り締まっているのは、被害者と加害者が生まれるという悲劇を少しでも減らすための危険性なのに。


これまでに思ってもみなかった危険性を認識することが我々にとっては重要なのであって、「僧衣で運転できるもん」と、ただ安全性を主張することが仏教界のとるべき姿勢だとは到底思えない。


あれらの動画は、僧衣でどこまでできるかを証明したかに見えて、その実、どれだけできなくなっているかもまた世間に知らしめているようにも見える。
「動きにくそう」という印象を抱いた方もいたことだろう。


この報道をきっかけに、僧衣で運転することを見直し、自発的に対策を考える僧侶も出てくるかもしれない。
対策とは、当たり前だが警察に対してではなく危険性に対してである。
自らを見直すいい契機として受け入れる僧侶が現れても、何のおかしさもない。

宗派の見解について

浄土真宗本願寺派はこの問題に対して、
僧侶の活動に関わる問題で、受け入れがたい
とコメントしているという。
そりゃあもし本当に改良衣で運転ができなくなったら、我々にとってとても困った事態になる。


しかしながら、それが人命を守るため、加害者と被害者を生ませないために意味のあることだとしたら、受け入れがたくても受け入れるしかないだろう。


車に乗るたびにたすき掛けをして袂をまとめて、裾を腰紐などで上げて運転をするか、作務衣のようなものを僧衣の上から履くか。
非常に手間のかかる話ではあるが、僧衣を着用したままで危険性を排除する方法はなくはない


僧侶の活動に関わる問題。
もちろんそうだ。
しかし僧侶であると同時に、運転時は一運転手である。
日本の社会内に存在する普通の人間である。


僧衣で運転ができなくなれば、僧侶は不利益を被るという見方もあるかもしれない。
しかしそれなら、僧衣で運転をしたがために不利益を被る人がいるかもしれないことも想定しなくてはおかしい。
まさか僧侶が、自分たちの利益を守るために他人の不利益を望むようなことはないはず。


事故があってからでは遅いが、もし過去に僧衣が原因で死亡事故が起きていたことが判明したとき、それでも仏教界は今と同じ主張を繰り返すのだろうか。

男性僧侶の思い

「安全運転を心掛けている。どこが危険か明らかにしてほしい」
男性僧侶はそう言っているそうだ。
そう言いたくなる気持ちもよくわかる。
違反の基準は曖昧であり、支障の程度もあえて「支障」と呼ぶほどの支障かどうか、微妙なところである


だから僧衣が安全だと証明することもきっと不可能ではないのだと思う。
だが、僅かではあるが危険が生まれていると証明することもまた、そう難しい証明とは思えない。
運動能力の低下は事実だからである。


結局、安全か危険かという、白黒で判断ができるものではないのだろう。
グレーなのである。濃度というか、%の問題なのである。
ごく僅かな危険性を、どこまで現実的な支障と見なすか
そこである。

さいごに

もし男性僧侶が、自分が反則金6000円を支払ったがために僧衣は違反であるとの認識がなされ、僧衣で運転することができなくなったら申し訳ないと考えているのだとしたら、そのような配慮は無用であることをお伝えしたい。
正直なところ、一番気にかかったのはそこだった。
そのように読み取れるコメントを男性僧侶は残している。


日本の仏教は世俗社会のなかに組み込まれている。
もうずっと昔から。
社会とともに世間に合わせて変化していくのは仕方のないことであり、それを今さら不満に思うようなことはない。


我々僧侶はブッダの法孫である。
どうすれば人々は安楽に暮らすことができるかを考える道を歩む者である。
自分たちに都合のいい風潮を招き、他を批判することをブッダが説いたことが、一度でもあっただろうか。


社会がどのように変化しようと、それは1つの原因で起きたことではない
1つの結果には、思いもよらない無数の原因、すなわち「縁」がある。
それがブッダの説いた縁起の法則である。
個人の責任にしようとか、怨みを抱くなど、僧侶にあっていいはずがない。


男性僧侶は今後の対応に苦慮されるかもしれないが、回りのことは気にせずにと願うばかりだ。

※ 1/6 追記

フェイスブックのほうに面白いコメントをいただきました。
日本の社会ルールに合った、運転に適した僧衣を作ればいいのではないか、と。


たしかに、運転時まで既存の形にこだわる理由はないので、袂と裾をうまくまとめた僧衣を新たに考案するというのは素晴らしい発想だと思いました。
認識が広がれば、十分に需要もあると思います。


賛同いただける法衣店さま、完成しましたらPRさせていただきますので、ぜひ開発のほどよろしくお願いいたします。
一瞬でたすき掛けができる紐とか、たすき掛け専用のちょっとお洒落な紐とかでも面白いかもしれませんね。
力を合わせて、よりよい在り方を模索していきましょう!