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『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻の現代語訳と原文 Part③


正法眼蔵,即心是仏

『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻の現代語訳と原文 Part③

即心是仏」の巻の3回目(最終回)。
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6節

いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにもみるところにあらず。唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著あり、行取あり、証著あり。
仏、百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども、丈六の金身に説似せず。
即、公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。
是、三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。
心、牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。

現代語訳

歴代の祖師方が護り伝えてこられた「即心是仏」の教えは、仏教を歩まない者には理解できない教えであり、たとえ仏教徒であっても誤った認識であるうちは正しく理解できないものである。


即心是仏は悟りを開いた祖師方だけが明らかにしてきた教えであり、仏教を究め尽くした教えと言われてきた。
だからこそ祖師方はそれを行じてきたのであり、それを悟ってきたのである。


「仏」とは万物そのものである
仏でないものが、何か1つでも世界にあるだろうか。
そうした理解をさらに超えて、万物が仏であることすら忘れ去れば、特別なものなど何もありはしない。


「即」とは仏法への問いである
問いではあるが、必ずしもその答えが目の前に現れるわけではない。
あらゆるものは無常であり、変化しないものは何1つとして存在しない。


「是」とは世界である
迷いの世界のほかに安楽の世界があるわけではない。
迷いの世界を、安楽に生きるのみである。


「心」とは壁である
その壁はいまだかつて汚れたことがなく、作為によって染まることもない。

7節

あるいは即心是仏を参究し、心即是仏を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し、是仏心即を参究す。かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり。いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。
このゆゑに古人いはく、「若し人 心を識得すれば、大地に寸土なし」。しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、帀地裂破す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。
古徳云く、「作麽生か是れ妙浄明心。山河大地、日月星辰」。あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。
山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は、生死去来のみなり、さらに迷なし悟なし。牆壁瓦礫心は、牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は、四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汙即心是仏なり。諸仏、不染汙諸仏なり。

現代語訳

即心是仏とは何であるかと、人生をかけて参究し、何度も何度も究め尽くしていきなさい。
そうして即心是仏に向き合ったなら、これぞまさしく即心是仏が即心是仏を伝えたと言えるだろう。
そのようにして仏法は正しく伝わり、今日にまで続いてきた。


祖師方が正しく伝えて来た「心」とは、「心はあらゆる存在そのものであり、あらゆる存在そのものが心である」というところの心である。
そうであるから祖師は、「もし人が心というものが何であるかを知ったなら、大地にはわずかな土もなくなる」と説いた。


よいか、心が何であるかを知れば、天は落ち、地は裂けてなくなるのだ。
あるいは、こうとも言えよう。
心を知れば、大地はさらに厚さ三寸を増すのだ、とも。
この意味がわかるだろうか。


あるいは昔の人はこうとも言った。
「清浄なる明らかな心とはどういうものだろうか。
それは山や河や大地であり、太陽や月や星である」と。


この言葉からわかるのは、心とは山や河や大地であり、太陽や月や星である、ということだ。
しかしながらこうした言語表現は、言葉に捉われてしまえば不足や余りを生じさせてしまうことだろう。


山や河や大地を、山や河や大地とありのままに受け取る。
山や河や大地といったものから、さらに波や風や煙といったものを知る必要はない。
太陽を知るなら、太陽を知ればいい。
月なら月を、星なら星を、そのものをそのままに知ればいい。
万物を万物のままに知ることが心である。


だから、生を生と知るのが心であり、死を死と知るのが心である。
その先に迷いや悟りといったものを探ろうとする必要はない。
壁は壁と、瓦礫は瓦礫と、ありのままに知ればいい。


万物を構成するもの、人間を構成するもの、ありのままをありのままに受け取るからこそ、万物は心なのである。
余分なものを思慮でもって知ろうとする必要はない。


このようであるから、即心是仏とは、思慮分別に関わることのない心なのである。
思慮分別に関わることのない仏なのである。

8節

しかあればすなはち、即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。いまだ発心、修行、菩提、涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり。たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも即心是仏なり。
しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。
いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。


現代語訳

即心是仏とは、仏道を歩む心を発し、修行し、悟り、安楽の境にいたる人のことをいう。
したがって未だ仏道を歩む心を発さず、修行せず、悟らず、安楽の境にいたらない者は、即心是仏の人ではない。


たとえ僅かな時間、心を発し、修行し、悟ったなら、その時人は即心是仏の仏である。
僅かな時間であろうと、長い時間であろうと、仏として生きたなら、人はその時仏としての人生を生きたことになる


それがたとえ一念という極めて僅かな時間の中でのことであっても、即心是仏の仏にかわりはない。
たとえその歩みが未熟であっても、仏として生きたなら即心是仏の仏である。


修行を重ねて仏になるというのは即心是仏ではないと言う者は、即心是仏を知らない者の言うことだ。
重要なのは時間の長短ではなく、仏として生きるかどうかである。


仏とは、つまりがブッダである。
ブッダこそ即心是仏の仏である。
過去も現在も未来も、どのような時代であろうとどのような人であろうと、真実を真実のままに受け取る心を持った者、つまりは即心是仏である者は、みなブッダなのである


即心是仏とは、そういうことだ。


『正法眼藏』「即心是仏」巻 おわり