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『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻の現代語訳と原文 Part②

正法眼蔵,即心是仏

『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻の現代語訳と原文 Part②

即心是仏」の巻の第2回目。
前回は外道(セーニャ)の言説について道元禅師が異を唱える内容となっていた。
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今回もその話の続きとなっており、外道の言説が仏教内部にも存在することを紹介し、これを批判する内容となっている。
それでは内容に入っていきたい。


3節

大唐国大証国師慧忠和尚、僧に問う、「何れの方よりか来る」
僧曰く、「南方より来る」
師曰く、「南方に何なる知識か有る」
僧曰く、「知識 頗る多し」
師曰く、「如何が人に示す」
僧曰く、「彼の方の知識、直下に学人に即心是仏と示す。仏は是れ覚の義なり、汝今悉く見聞覚知の性を具せり。此の性善く揚眉瞬目し去来運用す。身中に遍く頭に挃れば頭知り、脚に挃れば脚知る。故に正遍知と名づく。此れを離れての外、更に別の仏無し。此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来未だ曾て生滅せず。身の生滅するとは、龍の骨を換うるが如く、蛇の皮を脱し人の故い宅を出ずるに似たり。即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の所説は大約 是の如し」

現代語訳

中国の国師、南陽慧忠禅師は、あるとき一人の修行僧と次のような問答を交わした。


「あなたはどちらから参られたのか」

「南方からやって参りました」

「南方にも仏教を説く師はおられたか」

「はい、大勢いらっしゃいました」

「どのような教えを説いておられたか」


そこで修行僧は南方で聞いた教えを説明した。


「南方では、まずもって即心是仏の教えを修行僧に説いておりました。
仏とは知覚のことであり、人間は誰でも外界を知覚する機能を具えている。
こうした人間に具わっている心性を用いて、ブッダは仏法を説いてきたのだと。


知覚という性質はこの体中に具わっており、頭に触れれば頭を知覚し、足に触れれば足を知覚します。
だからブッダには正遍知という別名が存在するのです。
これ以外に仏というものは存在しません。


また、人間の体は生滅しますが、知覚といった心の本性はどれだけ時間を経ても滅することがありません
身が生滅するのは、たとえば龍や蛇が脱皮をするようなものであり、また人間が家から出るようなものです。


つまり、体は無常なもので生滅しますが、心は生滅することなく常住するというのが、南方で説かれている仏法の大約になります」

4節

師曰く、「若し然らば彼の先尼外道と差別有ること無し。彼が云く、我が此の身中に一の神性有り。此の性能く痛癢を知り、身の壊する時、神は則ち出で去る、舎の焼かれて舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なりと。此の如きを審するに、邪正辨うること莫し。孰れか是と為や。
吾れそのかみ遊方せしに、多く此の色を見る。近ごろ尤も盛んなり。三五百衆を聚却めて、目に雲漢を視て云く、是れ南方の宗旨なりと。他の壇経を把って改換し、鄙譚を添糅して、聖意を削除し、後徒を惑乱す。豈に言教を成さんや。苦しき哉、吾が宗喪びたり。若し見聞覚知を以て、是を仏性と為さば、浄名は応に、法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知にして、法を求るに非ず、と云ふべからず。

現代語訳

修行僧の話を聞いて、慧忠禅師はこう言った。
「もしそのようなことを説いているのであれば、それらの言葉は外道の言説となんら変わらない。


外道の言説とは、『自分のなかには魂のようなものがあり、その性質によって痛痒といったことを知覚し、肉体が滅する時には魂は肉体を離れる』というものだ。
家が燃えても家人は外に出て無事である、というたとえでよく説明される。
形あるものは無常だが、魂は常住であると。


このような見解については、正誤を論ずる気にすらなれない。
どうしてこのような言葉を仏の教えとして人に説くことができるだろうか。


私は以前、各地の修行道場を訪れ、遊行をしていたことがあったが、多くの道場でこのような言説を見聞きした。
最近になってますますその風潮は盛んになっているようだ。
三百人、五百人もの修行僧を集め、彼らに対して「これが南方の仏法である」と言い放っていた人物もいた。


彼らの言説は、六祖と称される慧能禅師の教えを勝手に改変し、くだらない話を付け加えて仏意を削り取り、後進の修行僧をただ惑わせているにすぎない
どうしてこのような言説が仏の教えであるなどと言えるだろうか。
苦々しいかぎりだ。我らの宗旨は滅びてしまったのか。


もし、見たり聞いたりといった知覚が仏性だと言うのなら、維摩居士が『仏法は見たり聞いたりといった知覚とは離れたものである。見たり聞いたりといった知覚は、まさに見たり聞いたりといった知覚でしかないのであって、その知覚を指して仏性であるとは言えない』と言わなかっただろう」


慧忠禅師はこのように修行僧に言ったのだった。

5節

大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり。国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑とすべし。先尼外道が見処としりてしたがふことなかれ。
近代大宋国に諸山の主人とあるやから国師のごとくなるは、あるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識、いまだかつて出世せず。
しかあるに世人あやまりておもはく臨済、徳山も国師にひとしかるべしと。かくのごとくのやからのみおほし、あはれむべし明眼の師なきことを。

現代語訳

慧忠禅師は六祖慧能禅師の高弟であり、この世界に現れた優れた仏法の師である。
仏の教えを学ぼうとする者は、慧忠禅師が示した教えを明らか理解にして、修行の手本とするべきである。
外道の言説との相違を知り、外道の教えを信じてはいけない


近頃の中国では、各地の寺で住職の地位にあるほどの者であっても、慧忠禅師のように優れた力量を具えた人物はいない。
いや、近年に限らず、昔から慧忠禅師と肩を並べるほどの人物はいなかった。


世間では臨済禅師や徳山禅師は慧忠禅師と肩を並べるほどの人物であると目されているが、それは誤りだ。
正しく見抜く力を具えた師がいないというのは、なんとも残念なことである。


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