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『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵,即心是仏

『正法眼蔵』第五「即心是仏」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵』の第五巻である「即心是仏」の巻。
直訳すれば「心が仏である」というほどの言葉であるが、他の巻での言説から考えれば、道元禅師は訳すことを好まないだろう。
これは「即心是仏」という言葉のままに受け取ったほうがいいものと思われる。


では、即心是仏とは一体何なのか。
「仏」とは悟りを開いた者の意であるが、問題なのは「心」のほうだ。
道元禅師はここでいう「心」というものを、知覚や魂といったものではないとしている。


ありのままをありのままに受け取る。
万物を万物のままに受け取る。
思慮分別をはさまずに、そのままに受け取る。


すると、心とは万物そのものであると言える。
万物と心といったものが、未分化のものとなるからである。


こうした認識を指して、道元禅師は「即心是仏」と言っているのではないか。
そんなことを個人的には思うが、それは読者各人の考えにおまかせしたい。


道元禅師は即心是仏の巻の冒頭で、まず外道の見解を示す。
仏教ではない教えが真理や悟りといったものをどのように考えているのか。
具体的には、不変の魂を想定し、身は滅しても決して滅びることのない魂(霊知)を想定し、それを悟ることが外道の教えであると示し、これを真っ向から否定する。


禅師が説く真理はそのようなものではない。
また、何もせずに人はそのままで仏なのだとも説かない。


禅師に言わせれば、即心是仏とは「発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり」。
仏の心を起し、仏の修行をし、悟りを開き、涅槃に入る。
つまりは、仏として生きることが即心是仏ということであると、巻の最後で主張する。


頭でいくら考えたところで禅師の心を感得することはできないかもしれないが、それでも禅師が残した言葉に参究することは無駄ではないはず。
たとえ今はわからなくても、経験を通していつかわかる時がくることを信じて、読み進めるまでである。


それではさっそく「即心是仏」の巻に入っていきたい。


1節

仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり、学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるがゆゑに、おほく外道に零落す。いはゆる即心の話をききて、痴人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。

現代語訳

悟りを開いた祖師方が保持してきたのは、即心是仏という名の悟りである。
この即心是仏という言葉はインドにはなく、中国で生まれたものだ。


仏道を学ぼうとする者たちは、この即心是仏が何であるかと参究したが、多くの者はその真意を誤って解釈した。
わからないままであればまだよかったものを、誤って解釈したたがために仏道を外れることになってしまった。


即心是仏という言葉を聞いて、愚かな者はこう考えた。
心が仏である」というのだから、仏とは人間の思考や知覚のことであり、仏道を歩まずとも人間は心のままに仏である、と。


こうした誤った考えは、仏の教えを正しく説く師に出会うことがなかったがために起こった結果であると言わざるをえない。

2節

外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる、苦楽をわきまへ、冷暖を自知し、痛癢を了知す。
万物にさへられず、諸境にかかはれず、物は去来し、境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此霊知、ひろく周遍せり、凡聖含霊の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空華ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了了として鎮常なり。たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。
昭昭霊霊としてある、これを覚者智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称す。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば真実といひぬべし。本性より縁起せるゆゑには実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに、常住ならず、存没するがゆゑに。明暗にかかはれず、霊知するがゆえに、これを霊知といふ。また真我と称し、覚元といひ、本性と称し、本体と称す。かくのごとくの本性をさとるを、常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。このほかは真実にあらず。
この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり。
これすなはち先尼外道が見なり。

現代語訳

仏教とは異なる思想の持ち主はインドに大勢いた。
そうした者たちはセーニャ(外道)と呼ばれた。
彼らが考えたのは次のような思想である。


自分のなかには魂(霊知)と呼ぶべき、神聖な知覚作用がある。
それがどのようなものなのかは、自分でも簡単に知ることができる。
この魂が存在するおかげで、人は苦楽を感じたり冷暖を感じたり痛痒を感じるたりすることができるからである。


魂のはたらきは何ものにも妨げられることはなく、どんな環境でも失われない。
物体はやがて姿を変え存在は消滅を繰り返すが、魂は常に変化することなく常住である。
そしてこの魂はどのような人間にも等しく宿っている。


魂のはたらきによっておかしな考えが生じることもあるが、ひとたび真理に適う考えが生じれば、あらゆる存在を凌駕して魂のみが居座る。
たとえ肉体が滅びても、魂だけは滅びることなく常住する。
例えていうなら、家が火事になったとき、家は燃え尽きるが人は外に出て無事であるのと同じようなものである。


この明白な魂を、目覚めた者の本性、智慧を有する者の本性と言い、悟りと呼んだ。
したがって誰もが悟りを具えており、迷いも悟りもすべては魂によるものである。
存在するあらゆるものとに関わりなく、魂は環境に左右されず、物体のように消滅せず、永劫にわたって常住する。


私たちが外界を認識するのも、魂のはたらきによるものであるから真実であると言える。
真理であるところの魂によって感得されるものは真実だからである。
ただし、魂のように常住ではなく、外界の存在は生滅の世界を免れることはない。


物事に明るい暗いのと関係なく、魂ははっきりと外界を知覚する。
だからこの魂は真我とも呼ばれ、覚元とも呼ばれ、本性とも呼ばれ、自己の本体とも呼ばれた。
このように本性であるところの魂を悟ることを、永遠の真実に辿り着くと言い、真実に帰ると言う。


ひとたび魂の真実を悟ったなら、二度と生死の輪廻に陥ることはなく、不生不滅の世界に入る。
これよりほかに真実はない。
そしてこの本性を悟らないうちは、輪廻の世界で苦しみを受け続けることになる。


以上が、セーニャ(外道)の思想である。


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