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正法眼蔵「身心学道」巻の現代語訳と原文 Part③

正法眼蔵,身心学道

正法眼蔵「身心学道」巻の現代語訳と原文 Part③

正法眼蔵』「身心学道」の巻の3回目(最終回)。
前回と前々回は仏道を心で学ぶというテーマで書かれていたが、今回は身で学ぶということについて述べられている。
これで「身心学道」のタイトルに沿うようになった。


「身心学道」巻を未読の方は、下の記事をまずどうぞ。
www.zen-essay.com


それでは内容に入っていきたい。


11節

身学道といふは、身にて学道するなり。赤肉団の学道なり。身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり。尽十方界是箇真実人体なり、生死去来真実人体なり。この身体をめぐらして、十悪をはなれ、八戒をたもち、三宝に帰依して捨家出家する、真実の学道なり。このゆえに真実人体といふ。後学かならず自然見の外道に同ずることなかれ。

現代語訳

心学道については先に述べた。
次は身学道についてである。


身学道とは、自分自身の身体でもって仏道を行じていくことを言う。
切れば血が出る、この身でもって仏の道を歩むということだ。


仏の道を歩む者は仏の身であり、そうであるなら、仏を行じている万物もまた仏である。
この世界の万物すべて、仏でないものはない。
みな真実の姿を余すところなく現わし、消滅と去来を行き交う「空」としての姿を現わしている。


仏の道を歩む者たちよ。
その身を十二分に活かして、悪を離れ善に努め、仏と教えと仲間とを尊び、欲と執着と迷いの世界から出て、仏の道を歩みなさい。


そうして生きる時、人は真実を体現して仏となっている
仏の道を歩まなくても仏になることができるなどという誤った考えを持ってはいけない。

12節

百丈大智禅師のいはく、
「若し本清浄、本解脱にして、自らは是れ仏、自らは是れ禅道の解と執せば、即ち自然外道に属す」
これら閑家の破具にあらず、学道の積功累なり。跳して玲瓏八面なり、落して如藤倚樹なり。或現此身得度而為法なり、或現他身得度而為法なり、或不現此身得度而為法なり、或不現他身得度而為法なり、乃至不為法なり。
しかあるに棄身するところに揚声止響することあり、命するところに断腸得髓することあり。たとひ威音王よりさきに発足学道すれども、なほこれみづからが児孫として増長するなり。

現代語訳

百丈禅師は次のような言葉を残している。
「人は本来清浄な存在であり、もともと解脱していると考え、自分は仏であり、そう理解することが禅の教えだと考えた者がいたなら、それは仏の教えではなく外道の教えである」


この言葉は決して古びた教えではない。
仏の道を歩んだ者が残した肝に銘ずる言葉である。


百丈禅師は自由闊達な智慧のはたらきによってこの言葉を残した。
経典の中にも次のような言葉があるだろう。
仏の身を現わして教えを説く場合もあれば、そうでない姿で教えを説く場合もある。
百丈禅師の言葉もそうした教えの1つである。


我が身への執着から離れた者の言葉には、人に耳を傾けさせるだけの力がある。
命をなげうってまで仏の道を歩もうとする者には、仏の教えを深く会得するだけの縁がある。
仏の教えは仏が生まれるよりもはるか以前からこの世界に存在する真理である。
その真理に学び、仏の道を歩んでいくのが仏教である。

13節

尽十方世界といふは、十方面ともに尽界なり。東西南北四維上下を十方といふ。かの表裏縦横の究尽なる時節を思量すべし。思量するといふは、人体はたとひ自他に礙せらるといふとも、尽十方なりと諦観し、決定するなり。これ未曾聞をきくなり。方等なるゆゑに、界等なるゆゑに。人体は四大五蘊なり、大塵ともに凡夫の究尽するところにあらず、聖者の参究するところなり。又、一塵に十方を諦観すべし、十方は一塵に嚢括するにあらず。あるいは一塵に堂仏殿を建立し、あるいは堂仏殿に、尽界を建立せり。これより建立せり、建立これよりなれり。

現代語訳

この世界は悉く真理を説き尽くしている。
東西南北、北東、北西、南東、南西、上下を含め、真理を現わさない世界というのは存在しない。


そうした世界というものを、あたかも仏が縦横無尽に存在しているかのごとくに考えてみよう。
人には自分と他人という違いがあると誰もが思っているだろうが、違うと思おうが違わないと思おうが、真理は変わらない。
我が身にも、誰の身にも真実は現れているということを忘れてはいけない。


いまだかつてこのような教えを聞いたことがない者は、よくよく聞きなさい。
どのような世界も法を説き尽くしているということを。
たとえそのように世界を捉えることができなくても、それでも真実は説き尽くされているということを。


人という存在は、微塵な要素が集合することでできあがっている。
人という固有の物体が存在するわけではない。
しかし人は集合体であるとは、普通は考えない。
真実が目の前にあらわれていようと、それを観ようとしなければ真実はわからないままだ。


我々僧侶が暮らしている寺院もまた、塵のごとき微塵な要素が集まることによって造られている。
世界の一部によって寺院は造られているのだ。
存在するものは、どのようなものであっても世界と別のものではない。


14節

恁麼の道理、すなはち尽十方界真実人体なり。自然天然の邪見をならふべからず。界量にあらざれば広狭にあらず。尽十方界は八万四千の法蘊なり、八万四千の参昧なり、八万四千の陀羅尼なり。八万四千の法蘊、これ転法輪なるがゆゑに、法輪の転処は、亙界なり、亙時なり。方域なきにあらず、真実人体なり。いまのなんぢ、いまのわれ、尽十方界真実人体なる人なり。これらを蹉過することなく学道するなり。たとひ参大阿祇劫、十参大阿祇劫、無量阿祇劫までも、捨身受身しもてゆく、かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり。禮拝問訊するすなはち、動止威儀なり。枯木を画図し、死灰を磨す。しばらくの間断あらず。暦日は短促なりといへども学道は幽遠なり。捨家出家せる風流たとひ蕭然なりとも、樵夫に混同することなかれ。活計たとひ競頭すとも、佃戸に一斉なるにあらず。迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真僞の際にとどむることなかれ。

現代語訳

存在するあらゆるものは、世界そのものであり、世界は真実そのものの姿である。
だから世界は真実を説き尽くしている。


しかし真実がそうであるのと、何もしないで最初から人は仏なのだと考えることとは、まったく話が異なる。
そうした外道の教えを信じてはいけない。


すべてが真実そのものであるから、真実とは広いものとも狭いものとも言えない。
あれとこれを分けて考えるようなことはできない。
どうやって言うことができるかと考えれば、あるがままに教えは説かれている、としか言いようがない。


すべてがそうであると言ってしまうと、掴み所のない話に聞こえるだろうか。
目安のようなものがあればいいのだが、あるとすればそれは自分自身に他ならないだろう。
あなたも、私も、真実を体現しているのである。
人という姿を通して。
この道理を疑うことなく見つめていきなさい。


たとえ果てしない時間がかかろうと、我が身への執着から離れて仏道を学んでいきなさい。
特別な行いを指しているのではない。
日常の一挙手一投足がそのまま学びへとつながるのだ。
合掌して礼をするという作法1つとっても、仏の道の学びである。
無駄だというような思いを抱くことなく行じていきなさい。


仏の道に休憩や終わりといったものはない。
歩むことで道があらわれるのだから。
光陰が速やかに過ぎ去っていくほどに、仏の道をほど遠く感じることもあるだろう。


世俗を出て生きるとは風流な生き方のようでもあるが、それは山に暮らす木樵と同じではない。
また生活のためには畑仕事の一つもするかもしれないが、やはり小作人とは異なる。


迷っているだの、悟っているだの、善だの、悪だのといった、比べ合う世界に身をおいてはいけない。
正しい、誤っているといった真偽の世界を抜け出して、仏の道を歩んでいきなさい

15節

生死去来真実人体といふは、いはゆる生死は凡夫の流転なりといへども、大聖の所脱なり。超凡越聖せん、これを真実体とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれども、究尽するに、面面みな生死なるゆゑに恐怖すべきにあらず。ゆゑいかんとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。生は死を礙するにあらず、死は生を礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず。生は栢樹子のごとし。死は鐵漢のごとし。栢樹はたとひ栢樹に礙せらるとも、生はいまだ死に礙せられざるゆゑに学道なり。生は一枚にあらず、死は両疋にあらず。死の生に相対するなし、生の死に相待するなし。

現代語訳

「空」として存在する人間の真実から観れば、生や死は概念という迷いに過ぎないが、その迷いの道が仏の道にほかならない。
何も異なる道が2つあるわけではない。
道をどう歩むかによって、道の意味が異なってくるというまでの話だ。


迷いだの悟りだのといった相対の世界に真実はない。
比較して認識されたものは、頭の中にのみ存在する概念でしかなく、だからこそ迷いや悟りといった事柄を脱したところを真実と呼んでいるのである。


生死に関して古来いろいろなことが説かれてきたが、突き詰めてみれば、誰もがすでに生死そのものであるのだから、今さら死を怖れる必要はない。


生のなかにいながら、死を観なさい。
死を捨て去らずとも、生を観なさい。
生きることで死が妨げられることはなく、死ぬことで生が妨げられるのでもない。
一本の木に生を観、一人の男に死を観るといったことがあるだけだ。


生でも死でもないもの。
そこが仏道である。
生と死が相対しない世界を指して仏道と呼ぶ

16節

圜悟禅師曰く、「生も全機現なり、死も全機現なり。太虚空に闉塞し、赤心常に片片たり」
この道著、しづかに功夫点検すべし。圜悟禅師かつて恁麼いふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず。去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり。去来は尽十方界を両翼三翼として飛去飛来す、尽十方界を三足五足として進歩退歩するなり。生死を頭尾として、尽十方界真実人体はよく飜身回脳するなり。飜身回脳するに、如一錢大なり、似微塵裏なり、平坦坦地、それ壁立千仭なり、壁立千仭処、それ平坦坦地なり。このゆゑに南州北州の面目あり、これを検して学道す。非想非非想の骨髓あり、これを抗して学道するのみなり。


現代語訳

圜悟禅師は次のような言葉を残している。
「生はこの身のはたらきのすべてである。死もこの身のはたらきのすべてである。
生死は全世界に具わっていて、真理そのものが余すところなく説かれている」


この言葉について、しずかに思い巡らしてみよう。


圜悟禅師はそう言っているが、生死はこの身のはたらきのみで説き終えることのできるものではない。
去来ということを学ぶとしたら、去に生死があり、来に生死がある。
また生に去来があり、死に去来がある。


去来とは、この世界を翼にして飛んでいき、飛んで戻ってくるようなものだ。
世界を縦横無尽に踏破するようなものだ。
まことに自由闊達である。


こうして身を廻らし頭を廻らして、よくよく真理を学んでいきなさい。
思うことなく、思うことがないのでもない」とする精神の最奥を学んでいくのみである。



『正法眼蔵』「身心学道」巻 おわり