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『正法眼蔵』第四「身心学道」巻の現代語訳と原文 Part②

正法眼蔵,身心学道

『正法眼蔵』第四「身心学道」巻の現代語訳と原文

正法眼蔵』の第四巻である「身心学道」巻の2回目。
前回に引き続き心学道について、つまりは心で仏道を学ぶということについて述べられている部分になる。


前回を未読の方は、下の記事をまずどうぞ。
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それでは内容に入っていこう。


4節

しばらく山河大地日月星辰、これ心なり。この正当恁麼時、いかなる保任か現前する。山河大地といふは、山河はたとへば山水なり。大地は此処のみにあらず、山もおほかるべし、大須弥小須弥あり。横に処せるあり、豎に処せるあり。三千界あり、無量国あり。色にかかるあり、空にかかるあり。河もさらにおほかるべし、天河あり、地河あり、四大河あり、無熱池あり。北倶廬州には四阿耨達池あり。海あり、池あり。地はかならずしも土にあらず、土かならずしも地にあらず。土地もあるべし、心地もあるべし、宝地もあるべし。万般なりといふとも、地なかるべからず、空と地とせる世界もあるべきなり。日月星辰は人天の所見不同あるべし、諸類の所見おなじからず。

現代語訳

たとえば山河大地や日月星辰といった、大自然を心として考えてみよう
そうしたとき、心はどのようなものと言えるだろうか。


山河や大地と一口に言っても、各々が思い浮かべる山河や大地はいろいろな姿をしていることだろう。
大地とは今この足元にある大地だけでなく、山も大地であり、その山にしても大きい小さいといった別がある。


空間と時間のなかに過去から続く世界があり、果てのない大地の上に無数の国がある。
そうしたなかに、人間の世界の山があり、空にかかる山がある。


河にしても様々だ。
天の河。地の河。大河もあれば、池の姿をしたものもある。
海もまた河の姿の1つであろう。


地は必ずしも土だけを意味しているのではない。
土は必ずしも地だけを意味しているのではない。
もちろん土地として同じものを意味するときもあるが、心の地や宝の地と呼ぶべきものもある。


世界に存在する万物、そのすべてに対して、それらを支える地でないはずはない。
鳥のように、空を地とする世界だってあることだろう。


同じように、日月星辰と言っても、その言葉によって想起されるものは人によってバラバラである。
魚にとっての水と、人間にとっての水では、同じ水でも意味が異なるように。
心というのはそれくらい多様なものなのである

5節

恁麼なるがゆゑに、一心の所見、これ一斉なるなり。これらすでに心なり。内なりとやせん、外なりとやせん。来なりとやせん、去なりとやせん。生時は一点を増ずるか、増ぜざるか。死には一塵をさるか、さらざるか。この生死および生死の見、いづれのところにかおかんとかする。向来はただこれ心の一念二念なり。一念二念は一山河大地なり、二山河大地なり。山河大地等、これ有無にあらざれば大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に変ぜず。

現代語訳

そうであるから、心というものに対する所見はいくつもある。
そしてさらに言えば、そのどれもが斉しく心なのである


心とは、自らの内にあるものとは言えず、外にあるものとも言えない。
どかからかやってくるものとも言えず、どこかへと去るものとも言えない。


人が生まれたとき、心は増えただろうか、増えなかっただろうか。
人が死んだとき、心は減っただろうか、減らなかっただろうか。
生死は増減ではないと観るなら、生死とは何なのか。
これは心にもそのまま通じる問いである。


これまで、心についていろいろなことを述べてきたが、詰まるところ、心はとは山河や大地なのだ。
そして山河や大地は有無に関わるものではない。
あらゆるものが山河大地なのである。


だから山河大地は、大きくも小さくもなく、得ることも得られないこともなく、知るでも知らないのでもなく、通ずるでも通ぜざるでもなく、また、悟る悟らないによって変わるものでもない。
ただありのままであるものだ。


心も同様である。
心は相対的に把握するべきものではない

6節

かくのごとくの心、みづから学道することを慣するを、心学道といふと決定信受すべし。この信受、それ大小有無にあらず。いまの知家非家、捨家出家の学道、それ大小の量にあらず、遠近の量にあらず。鼻祖鼻末にあまる、向上向下にあまる。展事あり、七尺八尺なり。投機あり、為自為他なり。恁麼なる、すなはち学道なり。学道は恁麼なるがゆゑに、牆壁瓦礫これ心なり。さらに三界唯心にあらず、法界唯心にあらず、牆壁瓦礫なり。咸通年前につくり、咸通年後にやぶる、拕泥滞水なり、無縄自縛なり。玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くだくるときあり、極微にきはまる時あり。露柱と同參せず、燈籠と交肩せず。かくのごとくなるゆゑに赤脚走して学道するなり、たれか著眼看せん。翻筋斗して学道するなり、おのおの隨他去あり。このとき、壁落これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ。

現代語訳

そのような心というものを自らに問い、学ぼうと道を歩み続けることを、心学道と呼ぶのだと受け取りなさい。
そうして心の道を歩むなら、そこに大小といった優劣などの区別は存在しない。


いまの家が真の家ではないことを知って、家を捨てて家を出た学びの道に、優劣はない。
どこまで歩んだとか、遠い近いの話でもない。
物事を最初にはじめようが、後からはじめようが、そこに違いなどない。
上か下かという話にはならない。


道を歩んでいれば、弟子は師に如何ばかりか自らの境地を示すこともあるだろう。
すると師はそれに答える。
弟子のために、また自分が正しく師としてあるために。
これが道を歩む者、すなわち学道というものである。


道を学ぶとはそういうことであり、そこを突き詰めていくと、壁や瓦礫から心を学ぶということにもなる。
三界唯心だとか、法界唯心だとか、学問や思慮や概念によって学ぶものではない。
心は抽象的なものでもない。
目の前に存在するありのままの現象に学ぶものである。


これまでも、そしてこれからも心を学んで行きなさい。
捉えどころがなく、自分を縛り付けるもののように感じるときもあるかもしれないが、行けば宝に気づくこともできるだろう。


心が何か摑めたように感じる時もあれば、その思いが無残に砕け散るときもある。
とても小さなもののように感じられ、見つけられないと思うときもあるかもしれない。


そんな時でもじっと立ち止まることなく、血で足が赤く染まるほどに歩みを続けて心を学びなさい。
留まり続けていてはいけない。


時にはひらりと身を翻すかのように視点を変えることも必要だろう。
そうかと思えば、水が高所から低所に流れるかのごとく、物事にしたがって実直に進むべきときもある。


そうして心学道を歩んだなら、概念の壁は崩れ去って、あらゆる世界が心そのもののあらわれであることを知ることだろう
無門という、門のない関門がどこにでもあることを知るだろう。


7節

発菩提心は、あるいは生死にしてこれをうることあり、あるいは涅槃にしてこれをうることあり、あるいは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらざれども、発心のところにさへられざるあり。境発にあらず、智発にあらず、菩提心発なり、発菩提心なり。発菩提心は、有にあらず無にあらず、善にあらず悪にあらず、無記にあらず。報地によりて起するにあらず、天有情はさだめてうべからざるにあらず。ただまさに時節とともに発菩提心するなり、依にかかはれざるがゆゑに。発菩提心の正当恁麼時には、法界ことごとく発菩提心なり。依を転ずるに相似なりといへども、依にしらるるにあらず。共出一隻手なり、自出一隻手なり、異類中行なり。地獄、鬼、畜生、修羅等のなかにしても発菩提心するなり。

現代語訳

先に述べた「発菩提心」「赤心片片」「古仏心」「平常心」について触れておきたい。
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まず発菩提心であるが、人はこの菩薩として生きる心を人生のなかで起こすことがある。
真の安らぎや、死の恐怖、煩悩との対峙をきっかけにして起こすこともある。
もちろん、そのほか様々な縁によっても。


菩提心が起こるのをただ待つという姿勢であっては起こるものも起こらないが、どこか特定の場所でなければ起こらない心なのではない。
本心から望むなら、菩提心を起こすのに障害となるものなど何もない。


恵まれているかどうかといった境遇と菩提心には関係がない。
頭が良いか悪いかといったこととも関係はない。
ただ菩薩として生きようと、仏道に志す気持ちを起こすことが、菩提心を起こす方法である。


菩提心は有るとも言えず無いとも言えない。
善でもなければ悪でもない。
だからと言って記すことができないものでもない。
善因の報いとして起きるものでもないし、すでに安楽の人には起こすことができない心というわけでもない。


菩提心が起きる時、菩提心は起きるのである。
どこでどのような暮らしをしていようと、そういった事柄は関係しない。


菩提心を起こしたその時には、世界がことごとくすべて悟りをあらわし、心をあらわしていると感じられることだろう。
このようなことを言うと、まるで心の境地が別のものになってしまったように聞こえるかもしれないが、そのようなことはない。


差し出された手を握るかのごとく、自ら手を差し出し、仲間でない者の間にも入って行き、菩薩として生きなさい。
苦しみや欲望や争いの心が渦巻く世界においても、菩提心を起こしなさい。

8節

赤心片片といふは、片片なるはみな赤心なり。一片両片にあらず、片片なるなり。
荷葉団団、団なること鏡に似たり、菱角尖尖、尖なること錐に似たり。
かがみににたりといふとも片片なり、錐ににたりといふとも片片なり。

現代語訳

次に「赤心片片」であるが、本心の欠片は、たとえそれが欠片であっても本心にほかならない
1つ2つが本心なのではなく、どのような欠片も心なのである。


蓮の葉は丸く鏡に似ている。
菱の角は尖り錐に似ている。
しかしながら、鏡のようであっても蓮であり、錐のようであっても菱であるところの真実は変わらない。

9節

古仏心といふは、むかしありて大証国師にとふ、いかにあらむかこれ古仏心。
ときに国師いはく、牆壁瓦礫。
しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず、古仏心それかくのごとく学するなり。

現代語訳

古仏心については、昔ある僧が大証国師に問うた言葉から学ぶのがよい。
僧は次のように問うた。
「古仏心とはどういうものでしょうか」


すると国師はこう答えた。
「垣根や壁や瓦礫だ」


ただし注意すべきは、垣根や壁や瓦礫が古仏心であると言っているわけではないことである。
垣根や壁や瓦礫は、そのままで真実の世界を生きている。
瓦礫は瓦礫であることで、もう真実を説き尽くしている。
その真実から、仏の心を学ぶということである

10節

平常心といふは、此界他界といはず、平常心なり。昔日はこのところよりさり、こんにちはこのところよりきたる。さるときは漫天さり、きたるときは盡地きたる。これ平常心なり。平常心この屋裡に開門す、千門万戸一時開閉なるゆゑに平常なり。いまこの蓋天蓋地は、おぼえざることばのごとし、噴地の一声のごとし。語等なり、心等なり、法等なり。寿行生滅の刹那に生滅するあれども、最後身よりさきはかつてしらず。しらざれども、発心すれば、かならず菩提の道にすすむなり。すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。すでにあやしむことあり、すなはち平常なり。

現代語訳

平常心とは、ここであろうとどこであろうと、場所を問題としない。
どこへ去ろうと、どこへ来ようと、去るときは天のすべてが去り、来るときは地のすべてが来たる。
跡を留めずに平常である心が平常心である


平常心とはそのような心であるときにあらわれる。
千や万の戸が息を揃えて開閉を行うかのごとく、乱れない様が平常心である。


この世界は悟りで覆われている。悟りを説き尽くしている。
しかしそのなかに暮らす人間は、悟りというものを思い出すことのできない言葉のように感じ、また、ふいに吹き出たくしゃみのようにしか受け取ることができない。


悟りとは、言葉であり、心であり、真理である。
我々の肉体は時間とともに移り変わっていくが、菩薩の身より先のことはまだわからない。
わからないが、菩薩として生きようとする心を起こしたなら、その先の悟りへといたるだろう。


すでに菩薩の道を歩んでいる自分がいるのだから、さきのことを不安に思う必要はない。
どうしても不安だというのであれば、それもまた平常の心であると言おう