禅の視点 - life -

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異常だって正常さ ~色覚異常の目で普通に生きていく~

色覚異常


私は生まれつきの先天性色覚異常という目の障害があって、赤と緑に関連する色の識別が難しい。識別できる場合もあるのだが、たとえば緑色の草のなかに赤色の花が混じっていても全部緑色に見えることが多いし、熱っぽい顔だとか、生焼けの肉だとか、そういった「赤み」はまったく見えない。赤みという色合いがあるのは情報として頭で理解してはいるが、自分の目で実際に赤みが見えたことは一度もない。


小学生の頃は、青と紫の違いがわからなかった。紫は青に赤みが加わった色だから、この赤みが抜けて青に見えてしまうのである。私にとって青と紫はほとんど同じ色で、紫のほうが若干暗いと感じることだけが、強いて言えば青と紫の違いだった。


だから図工の時間に外で絵を描くときには、空の色を紫で描いたこともあった。私にしてみれば、絵具セットには青色と暗い青色(紫)が並んでおり、どちらを使うかは気分次第で決めるというような違いでしかなかった。そんな絵を先生に注意されて空に紫を使うのは適切でないらしいことを教わったが、なぜ青い空に青色である紫を使ってはいけないのか、釈然としない気持ちになったことを覚えている。


先天性色覚異常は遺伝によるもので、日本人では男性の5%が色覚異常の目を持って生まれてくる。女性は0.2%で、男性に比べると随分と少ない。なぜこうした違いが生じるのかは、性染色体と色覚異常遺伝子の関係で説明がつく。


そもそも人間は、父親と母親から1 対(2 本)の性染色体を受け継いでいる。性染色体にはX 染色体とY 染色体があり、X 染色体とY 染色体を1 本ずつ受け継ぐと男性になり、X 染色体を2 本受け継ぐと女性になる。


色覚異常の遺伝子はX 染色体にのみ存在しており、したがって男性は、受け継いだ1本のX染色体に色覚異常遺伝子があった場合、色覚異常の発現が確定する。


しかし女性はX染色体を2本受け継いでいるので、仮に1つのX染色体に色覚異常があっても、もう1つのX染色体に異常がなければ色覚異常は発現しない。女性で色覚異常があらわれるのは、受け継いだ2本のX染色体の両方に色覚異常遺伝子があった場合に限られるため、男性よりも圧倒的に発現者数が少ないというわけだ。


ちなみに、2本のX染色体のうちの1本にのみ色覚異常遺伝子がある女性は、色覚異常の遺伝的保因者になる。この保因者の割合は人口の10%のため、男性の20人に1人が色覚異常で、女性の10人に1人は保因者であることがわかっている。この割合を見れば、色覚異常が特に稀な障害ではないことは明らかだろう。


私は、赤と緑に関係する色の見分けができる目で世界を見たことがない。先天性色覚異常者は、自分1人では色覚異常に気づくことができないと言われる。そのとおりだ。私にとっての世界は、赤ちゃんとして生まれた最初からこのような色合いであり、この色が自分にとっては普通の世界だからである。この色合い以外の世界を知らないのだから、自分1人で異常に気づくことなど不可能だ。そもそも、自分にとっては何の異常も起きていないのだから。


色覚異常のない目で風景を見てみたいと思うかというと、これが意外にも、そんなふうに思ったことはない。異常があると判断されたところで、自分にとっての景色は生まれてからこのかたずっと変わりなく、これからも変わりなく、これが私にとっての普通の世界だからである。自分にとっての普通を生きているのであるから、殊更に「異常」などと言われると心外だとすら感じる。


私は自分の色覚異常に対して、それほど深刻に考えたことがない。それには、検査によって色覚異常が判明した後の、母親の反応が大きく影響しているのではないかと思っている。


母親は私の目が色覚異常であることを知っても、特に驚くことはなかった。「そういうこともあるわね」といったふうで、まるで問題にしなかった。その年の正月、母方の親戚の家に遊びにいった際に私の目が色覚異常だったという話題になったのだが、祖母がひどく心配したのを、母は軽く制した。


「色覚異常だったってだけのこと。それだけのことだって」


こんなふうに、障害なんて何でもないんだと言える親が世の中にどれくらいいるだろうか。


もしも私の親を含め、親戚全員が私の目を心配し、色覚異常だなんて可哀想だと憐れむ雰囲気が作られていたら、私はもしかしたら自分が可哀想で不運な人間なのだと思うようになっていたかもしれない。しかし母はそのような態度をとらなかった。色覚異常という目なだけ。あなたにとっては普通の目だわ。今思えば、何でもないことのように応じてくれた母の対応に、私はたぶん救われていたのだと思う。


日本は差別をなくそうという社会全体の機運が高まっており、色覚異常でも暮らしやすい世の中になってきている。気づいていない人もいるかもしれないが、じつは信号機も改良されて色覚異常であっても見やすくなっているし、ユニバーサルデザインという誰もが識別しやすいデザインが意識され、社会生活のなかで困るような事態に遭遇することは本当に少なくなった。


色の識別が職業の内容に直結するような仕事に就くことは難しいが、それぞれの仕事にはそれぞれ適性があるのであって、それは色覚のみに関わらない。自分に向いていること、向いていないことは誰にでもあり、私は色に関わる仕事は向いていないというだけの話である。向いていない仕事などいくらでもあるのだから、色の適性という自分の個性は当然に受け入れる。


色覚異常という障害がどのようなものか、どんな時に困るのか、そういった実状を多くの方々に知っていただくことができれば、必ず理解してくれる人は増えていく。そのためにも色覚異常について発信していくことには意味がある。仕事をしていても「これはちょっと見分けるのが難しいから、こういうふうにしてもらえるとありがたい」と周囲の人に具体的な改善方法を伝えるのも、色覚異常を具体的に理解してもらえるきっかけになるのではないかと思う。


違いを理解してもらうというのは、もちろん色覚異常だけの話ではない。あらゆる障害にあてはまる話である。私たち人間は、知らないことへ拒否反応を示しやすい生き物だ。慣れてしまえば何てことないことでも、最初はやはり自分と違うということだけで拒否の姿勢を示してしまいやすい。


自分の頭のなかにある「普通」から外れたものは「異常」と見なされ、警戒されてしまうのだろうが、「異常」も時が経てば普通になる。普通になるには「違い」に触れる機会が必要で、「違い」に慣れる時間が必要である。啓発活動はその「違い」に触れる前のジャブみたいなもので、いきなりストレートパンチを打つよりも理解が得られやすいのだと思う。


世の中には多様な人間がいて、それぞれに苦労があり、特性が違う。自分とは違う人を「普通でない」と感じることがあるかもしれないが、誰もが自分にとっての普通を生きていることだけは忘れてほしくない。多くの人が他者のことを「自分と違ってあたりまえ」だと思えたなら、世の中はずっと寛容的で、生きやすいものになるのではないか。