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怪我を防ぐためにまずすべき大切なこと

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怪我を防ぐためにまずすべき大切なこと

今から約2500年前、仏教を説いたブッダは弟子たちを集めてこんな質問をしたことがあった。


「私たちが歩く道の上には、尖った木片やゴツゴツした石などがいくつも落ちていて少々危ない
どうしたらよいだろうか」


当時は誰もが裸足で生活をしていた
だから外を出歩けば怪我をすることも珍しくなかったのだろう。
そうした状況下での問いかけである。


弟子たちはしばらく考えた。
そして一人の弟子がおもむろに手を上げて次のように答えた。
「すべての道の上に鹿の皮を敷き、木片や石などを覆ってしまえば安全だと思います」


鹿の皮を敷く

なるほど、たしかに道の上に鹿の皮が敷いてあれば、木片や石を踏んで怪我をするという危険はなくなる。
鹿の捕獲方法や生息数、一頭からとれる毛皮の面積など、実際にこの案を採用するにはいくつもの課題をクリアする必要があるが、かなり大胆な発想で面白い。


そして、この答えに対しブッダは次のように応じた。
「人が歩く道はいくつにも分かれていて途方もなく長い。
すべての道を鹿の皮で敷きつくすことは不可能ではないだろうか」


冷静に斬る。
そりゃあそうである。
この世界の道という道をすべて鹿の皮で敷き詰めることなどできるはずがない。
ではどうしたらいいのか。


ブッダは続けた。
「鹿の皮を用いるのであれば、道に敷くのではなく、自分の足の裏を覆ったほうがよい」


何のことはない。靴を履けばいいと言っているだけである。
それだけで、危ないものを直接踏むことがなくなる。

靴を履くことの意味

この話をはじめて仏典で読んだとき、思わず噴き出してしまった。
なんのこっちゃと。
しばらく笑いが尾を引いて、やがて収まって、その後でじわりじわりと効いてきた。
なるほど、そういうことかと。
 
 
私たち人間という生き物は、何か不満があると「誰々が悪い」とか、「社会が悪い」とか、「政治が悪い」とか、悪者探しをしてしまうことがある。
悪者を仕立て上げることができれば、自分が悪者でなくなるからである
自分を擁護したいがために、何かが悪者になる必要があるのだ。


たとえば道を歩いていたら躓いて転んで怪我をしてしまったとする。
このとき、はたして怪我をした責任はどこにあるのか。悪いのは誰なのか。
工事をした人が悪いのか。整備を怠った人が悪いのか。公的機関が責任をとるのか。


そんなはずはない。
悪いのは注意を怠った自分である。


怪我を負わないように生きようと思ったとき、石ころの落ちていない社会を目指すより先に、まず自分で靴を履くようにしたほうがいい。
外に変革を求めるより先に、自分の足はまず自分で守る
それが何よりも早く、確実な道だからである。


ブッダの生きた時代、道路を整備しようとする人がどれほどいたのか私は知らない。
しかしどれだけいたとしても、ブッダは自分自身で靴を履くことを人に勧めたに違いない。


喜怒哀楽を感じるのは心である。
そして心の主は自分である。
それならば自分自身の心掛けで、世界を幸せに生きることができるはず。


「外を整えようと思う前に、まず自分の心を整えよ」
道に鹿の皮を敷くのではなく、自分で靴を履いたほうがいいとは、きっとこのような意味なのだろう。