幸せとは三つ葉のクローバーのようなもの
世の中には、何十万円、何百万円もするようなワインがありますよね。
しかしそのようなワインを飲んでも、誰もが美味しいと感じるわけではありません。
お酒が飲めない人は、美味しいどころか不味いと感じることでしょう。
高価なワインよりも水のほうが美味しいと感じる人が、この世の中には大勢います。
すると、そのワインに付けられた値段とは一体何なのでしょうか?
とんでもなく高額なのだから、それを飲めばさぞかし幸せになれるのかと思いきや、逆に不味いという不幸せを味わうこともある。
この場合の値段は、希少性とか、手間とか、そのようなことが反映された結果であって、値段が美味しいかどうかを決めているわけではありません。
では、値段ではないとしたら、何が美味しいかどうかを決めているのでしょうか。
これはもちろん、自分の舌です。
値段によって決まっているのではなく、何かを口にした自分の舌が美味しいかどうかを感じ取っているのです。
あたりまえの話ですけどね。
この「美味しさ」を「幸せ」に置き換えてみると、幸せとは何なのかがわかりやすいのではないかと思います。
高価なものを手に入れて、それで幸せになるかといえば、そうではありません。
幸せかどうかは、あくまでも自分の心が感じていることだから。
値段によって幸せや不幸せが決まるのではありません。
これは生活のすべてに当てはまります。
家や車や服や、その他もろもろ。
私たちは生きていくなかであらゆるものを買っていきますが、それで幸せが決まるわけではありません。
幸せかどうかは、自分の心が感じることだからです。
心が幸せを感じなければ、何を手に入れても幸せにはなれないのです。
逆にいえば、何を手に入れなくても、幸せな人は最初から幸せだということ。
生死の境をさまようような大病をして、どうにか一命を取り留めることができた人がこんなことを思ったそうです。
「何もいらない。生きているだけで幸せだった」
本心でしょう。
その言葉に偽りはないと思います。
本当に、生きていることがすでに完結した幸せであると感じることが、この人生にはある。
何かを手に入れた時の高揚感や優越感とは異なる、湧き水のように内側からじんわりと湧き出るような幸福感。
涙が静かに頰をつたうような幸福感。
そんな幸せを感じたとき、人は気づくわけです。
ああ、幸せっていうのは、外にある何かを手に入れることではなくて、内側にあるものだったんだ、と。
幸せっていうのは、最初から何一つ欠けていなかったんだ、と。
私たちが人生のなかで真に知るべきことは、何かを手に入れる方法ではなくて、自分が本当に幸せと感じることは何なのか。
さらにいえば、「幸せとは何なのか」なのです。
幸せとは何なのかを自分に問い、生きるなかで答えを発見していく。
人に答えを訊いたところで、それは自分の答えにはなりません。
返ってくるのはすべて借り物の答えですから、必ず自分自身で答えを見つけなければいけません。
探しても探しても見つからなくて、でもふとした瞬間に偶然見つかるということもあるでしょう。
そうして幸せとは何なのかを知ったとき、その人は二度と不幸せになんてなれなくなってしまいます。
幸せとは、外にあるものではないから。
近くにあるのに、遠くにあるように思えるもの。
遠くにあるように思えて、じつはとても近くにあるもの。
四つ葉のクローバーを見つける必要なんてないのです。
何かを手に入れることができれば幸せになれる、という妄想を捨てることができれば、もうそれで幸せになれるのです。
幸せというのは、そのようなもの。