禅の視点 - life -

禅語の意味、経典の現代語訳、仏教や曹洞宗、葬儀や坐禅などの解説

「死なないように思えても人は必ず死ぬ」問題をどう解くか

仏教,死

「死なないように思えても人は必ず死ぬ」問題をどう解くか


『平家物語』の冒頭の一節。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。


あらゆるものは滅という運命を背負っている。それがこの世の道理であり、抗うことのできない真理である、というような、ちょっと悲観的にも聞こえる一節。


これくらい厳しく言わないと、自分がやがて死ぬ存在であるということに正面から向き合うことはないのだと思う。我々人間というのは。
「おごれる人」とは、自分に死はふさわしくないと思っているすべての人を指す言葉に感じられる。


多くの人は、あえて自分の死に意識を向けたいなどとは思わない。少しでも長く生きたい。健康でありたい。若々しくありたい。総じて「生きたい」と、そう思うのが人の心情である。死はマイナスで、生はプラス。それを普通だと思っているから「あなたは死ぬ」と言われると、ムッとする。驚愕する。泣く。立ち上がれなくなる。


でも、どれだけ不条理だと叫んだところで、死から逃れることはできない。生にしがみつけば、死の恐怖はさらに高まり、逃れようとすればするほど、死は一層強大になる。それがあまりにも自分にとって大きすぎる問題だから、手っ取り早い手段として無視をする。死について考えることをやめて、死を忘れることにする。


精神衛生上、そのほうがいいという人もいるかもしれない。常に死を考えて生きるよりも、死を忘れて享楽的に生きた方が幸せだと。もちろんそれでいいなら、それでかまわない。夏休みの宿題を八月の最終週まで手をつけないでおいて、最後に一気に取り組む人も実際にいる。


ただしその手段は、問題を先延ばしにしただけであることを理解しておかなくてはいけない。死の問題について、解決の糸口も見つけられないまま八月の最終週に突入することを自分で選んだのだから、そのツケが壁のように自分の前に立ちはだかっても、それを望んだのは自分だと納得をしなければならない。少しずつでも取り組んでいたなら、これほどの苦悩を感じることはなかったのではないかと後悔しても、もう遅い。気付いた時にはもう、死は眼前に迫っている。


死の問題はいつでも取り組むことができる。いつでもできるから今やらなくてもいいと思って、どんどん先延ばしにして、結局余命を宣告されたときになって慌てることにもなる。急に余命何年なんて言われても受け入れられないと思うかもしれないが、全然急ではない。この問題はずっと前から自分の目の前にあった。


薄れていく鐘の声、枯れた花の色、春の夜の夢、風の前の塵。
それら儚いもの、空しいものの姿は、忘れていた夏休みの宿題に再び目を向けさせる親の声のようなものである。「宿題はいいの? 最後に慌てても知らないからね。毎日少しずつやっておきなさいよ」。それら自然の声に応じるか、応じないか。それを決めるのは自分次第。


滅するものに自分を重ね合わせたとき、人は死の問題を思い出す。そうだ、自分はこの問題を解決しなくてはいけなかったんだと気付く。なぜならその問題は、必ず自分の前に立ちはだかることがわかっているから。壁の高さに絶望しないために、どうするべきか。


死が苦悩なのではなく、死を厭う心が苦悩を生む。
だから死を厭わない人に、死の苦悩はない。


この変哲のない言葉は、ブッダが死の問題を解こうとする人々のために示したヒントである。
死を厭うとはどういうことか。それは生にしがみつくということである。生にしがみつくとどうなるか。生を失うことが苦痛になる。では、もし、生にしがみつくことがなければ、死はどうなるのか……。


じゃあ命を粗末にして、悲観的に人生を生きればいいのかというと、まったく違う。それは死の問題を解決したのではなく、死の問題の前に打ちひしがれて絶望しながら生きているにすぎない。問題の根本は何なのか。問題の意味さえ理解できていない。


ブッダが示したのは、死の苦悩には原因があるということである。したがってその原因を取り除けば、死の苦悩もまた取り除かれる。これは光明だった。
もし、死の苦悩に原因がなく、死そのものが絶対的な苦悩であれば、救いはない。天国に生まれるか、輪廻で生まれ変わるか、来世に希望を託す以外に死の苦悩から逃れる術はなくなる。


しかし、ブッダが示したのは、死は絶対的な苦悩ではなく、死の苦悩には原因があるという結論だった。
その原因とは何なのか。なぜ自分はこれほどまでに死を怖れているのか。そうしてもがき苦しむなかで、ブッダは自分の心を深く深く見つめていった。


そしてブッダは答えを悟った。
「私は生きて然るべきである」という、生にしがみつく根源的な生存欲求という思い込みのなかから、いくつかの真理を発見した。


1つ、「然るべき」などというのは自分が思っているだけで、この世に存在するあらゆるものは滅する性質を持っていた。


1つ、普遍的な「私」は、じつは存在しなかった。


1つ、誤った認識からスタートしていたから、誤ったゴール=苦悩が生まれた。


1つ、苦悩とは、思いどおりにならないことから生まれる感情だった。


そうした諸々の発見を、ブッダは人々にも説いた。苦悩から逃れる道も説いた。全員が理解してくれるなんて思ってはいなかった。耳あるものは聞け。打てば響く鐘のように、誰かの心に響けばいいと考えての説法だった。
そして実際、ブッダの言葉は届く人にはちゃんと届き、届かない人には届かなかった。


答えは自分で見つけなさい。
頼りにすべきは、普遍的な真理と、自分の人生を生きる自分自身の2つである。そう言い残してブッダはこの世を去っていった。


他人に頼ってはいけない。神に頼ってはいけない。誰かがあなたの変わりに悟ってあげることなんてできないのだから。悟るのはあなた自身。
だから自らの人生を自分で歩むなかで、死の問題に対する答えを自分で悟りなさい。ヒントはたくさん残しておくから。


それが、ブッダが残した教え、仏教である。