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【禅語】 両忘 - 頭のなかにある、この頑固な物差し -

両忘

【禅語】両忘(りょうぼう)

意見が衝突したとき、よく勃発するのが「どちらの意見が正しいか論争」。
引くに引けなくなった当事者たちは、どうにかして相手を言い負かすことで場を治めたいと思うのだろうが、仮にどちらかの意見が通ったとしても、それでは後に禍根を残す。
そもそも「どちらの意見が正しいか」という考えが、すでに問題の解決方法として非常にあぶない。


いかなる場合においても、正しい解決方法となるのは「正しい答えとは何か」を考えることでなければおかしいだろう。
一個人の意見でしかないAかBかを決めるのではなく、知りたいのは本当に正しい答えであるところの「X」だからである。
目的は「X」であって、AなのでもBなのでもない。



意見のぶつかり合いというのは、正と誤のぶつかり合いではなくて、いつだって正と正のぶつかり合い
AさんとBさんの胸の内には、互いに正の旗が掲げられているもの。


けれどもその正の基準が、たとえばセンチの物差しで測られたものと、片やインチの物差しで測られたもののように2種あるものだから噛み合わない。
Aさんの正しさはセンチの正しさで、Bさんの正しさはインチの正しさ。
人がその頭のなかに所有している物差しには、センチとインチのように、その人の価値観に基づいた目盛りが付けられてしまっているのである。
これではいくら話し合っても平行線。


しかも厄介なことに、この目盛りは人によってまったくバラバラ。
センチとインチどころの話ではない。
だから「正しい」という言葉は同じでも、その意味するところは人によってズレがある
このズレが、衝突の原因となる場合も多々あるのだ。


こんなとき、禅ならどう考えるか。
既存の尺度、つまりは頭のなかにある自分の物差しで測ろうとするから、無理が生じる。
それなら、何の物差しも用いないでゼロから考えてみればいいじゃないか、と考える。
それがこの「両忘」という禅語の説くところ。


大小、高低、左右、是非、善悪、自他、迷悟、AとB。
あらゆる相対の両極から離れ、忘れ去ってしまい、真実であるところの一極「X」について考える。
そもそも真実とは、そうやってゼロから考えることでしか摑むことのできないものだからである。


親と子のあいだでも意見の相違は生まれる。
我が子の幸せを願うがゆえに、親は子に忠告をする。
けれども親が所有している幸せを測るための物差しと、子が所有している物差しとが違うために、幸せを願う想いが強ければ強いほど、ぶつかり合ったときの衝撃もまた強くなってしまう


和解とは、そんな両者が自分の物差しを捨てて、じかに物事を見つめることで、はじめて生まれるもの。
自分の物差しに刻まれた目盛りは、自分に都合のいい間隔で刻まれた目盛りでしかないことを自覚することで、やっと生まれるもの。
あらゆる思い込みの元凶であるこの物差しさえ捨てることができれば、無益な言い争いは生じないはずなのだ。


正誤を測っているものは、所詮、自分の物差しでしかない
これを理解するだけで、我々の頭はずいぶんとクリアになる。


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