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垂直思考と水平思考 ~4つのリンゴを3人で分けるには~

垂直思考,水平思考

金沢嘉一氏とリンゴのエピソード

教育評論家として知られる金沢嘉一氏が小学校の校長を務めていたとき、こんな出来事があったそうです。


ある日、若い先生が算数の時間の冒頭に、生徒に対して次のような問題を出しました。


リンゴが4つあります。3人で平等に分けるためにはどうしたらいいでしょう?


生徒は考えた。


4つのリンゴのうち、3つは各人に1つずつ渡せばいいので、問題は最後に残った1つ。この1つのリンゴを3人で分けるとなると、包丁か何かで3等分するのが無難でしょうが、この3等分という発想が小学生にはなかなかできない。つまり、そう、この問題の意図は、1と1/3という分数の概念を理解させるための呼び水なのでした。


しかしながら、分数は小学生にとって難しい概念。3等分という発想にはなかなか至らず、生徒はすっかり悩み込んでしまいました。すると、しばらくして1人の生徒が思いついたという顔でこんな発言をしました。


先生、1こ多いからお仏壇に供えましょう


ようやく出た生徒の発言に対し、先生はこう返します。


「ダメです。1こ多いから仏檀に供える、のでは算数の授業になりません」


この若い先生、のちに校長である金沢氏と話をする機会があり、このエピソードを伝えたそう。すると金沢校長が残念な顔をしたためか、若い先生は「校長先生でしたらどのように答えましたか」と訊ねました。


「私か? 私だったら、『いいことだ、校長先生も一緒にお供えをして合掌をしよう。合掌をしたら、そのリンゴを仏檀から下げて、3人で仲良く分けよう。どのように分けるか、ここからが算数の勉強だ』とでも答えるかな」


さらに、金沢校長先生はこう続けたそうです。


「生徒の答えを一旦受け止めて、言葉を返したとしても、時間にしてせいぜい2~3分の話。あなたは2~3分を惜しんで、子どもの宗教心の芽をつんでしまった。惜しいことです」


若い先生は不満な面持ちで黙ってしまったという。



垂直思考と水平思考


さて、この話、皆様はどう感じるでしょうか。


若い先生の返しを「門前払いのように正答以外を切り捨てるのは思いやりがない」と思いますか。生徒の答えを「算数の本筋とはズレてるけどナイス」と思いますか。金沢校長の返しを「懐深いな」と思いますか。


ところで、垂直思考水平思考という言葉を聞いたことがあるでしょうか。


垂直思考というのは、物事を論理的に追求していく研究的な考え方のことで、先のリンゴの問題なら、1と1/3に辿り着く思考です。


一方、水平思考というのは、既成の理論や概念にとらわれず、問題解決のために多様なアイデアを出していこうとする思考です。「仏檀に供える」はまさに水平思考による問題解決策といえます。


垂直思考は物事を深く突き詰めていく思考、水平思考は物事を多様な角度から広く捉えようとする思考、と大雑把に言うことができるでしょう。


たとえば、車がほしいと考えている人がいたとします。しかし、お金がない。この条件のなかで目標達成(問題解決)するために、垂直思考なら次のようなことを考えると思います。車の金額はいくらか。分割で払うとしたら、月々いくらになるのか。毎月の稼ぎはいくらか。あとどれだけ働けば、分割払いで購入することが可能か。などなど。とにかく目当ての車を買う方法を研究していくわけです。


一方、水平思考ならどうでしょう。車がほしい理由はそもそも何だったのか。買い物へ行く際の移動手段が必要なのか。それなら代替策としてタクシーを使う手もある。カーシェアリングという方法もある。中古車はどうか。バスはどうか。電車はどうか。買い物なら宅配で送ってもらうこともできる。ネットも解決の一方法となる。などなど。


問題解決といっても答えは1つではなく、考えようによってまったく新しい解決の道が見つかることも少なくありません。私たちは常に、この垂直思考と水平思考の両方を用いながら、時に問題を深掘りし、時に一歩退いて問題を広く俯瞰し、相互にうまく作用するように無意識のうちに考えていることと思います。世の中に生じる新しい商売などは、そのほとんどが水平思考から生まれたものなのではないでしょうか。


現実社会では、垂直思考だけで物事は解決しません。そもそも問いの立て方が不適切な場合も多く、それに本人も気づいていないということだって普通にあります。何が最終的な目標なのか。そこをよくよく考えてみたら、手段は1つではなかったということは往々にしてあり得ます。


小学校のテストは、○か✕かで判断されるものがほとんどで、そのため、答えというのは○か✕かで判断できるものだという認識を子どもの頃は持ってしまいがち。中学でも、高校でも、テストというのは概ね同じようなものです。


しかし、大学に入るとテストの雰囲気というのはガラリと変容します。大学のテストでは、「○○について述べよ」とだけ問題が書いてあるとか、単純に○か✕かで区切ることのできないものとなっていきます。そこでは「より適切な答え」が求められており、いかに要点を押さえて○に近い答えを記述するか、という「決まっていない答え」が求められるようになっていきます。


さらに社会で働くようになると、問題の在りようはどこまでも多種多様なものとなり、そもそも正答が存在するかすら不明なものばかりになっていきます。答えが不明ということは、手探りで答えを摸索していくということであり、その方法として垂直思考と水平思考の両方が必要となってくるわけです。


学校のテストで高い点数がとれる「頭が良い」と言われる人は、垂直思考における力が優れていることがわかっています。この分野では、テストの点数が高い人は、低い人よりも問題解決に対する能力が優れていることでしょう。


しかし、テストの点数が高くても、水平思考が優れているかどうかまではわかりません。冒頭のリンゴの問題に答えた小学生のように、「1個余分だから仏さまにお供えする」という水平思考的問題解決は、学校のテストでは切り捨てられてしまうからです。


社会に出て、学生時代の「頭の良し悪し」が仕事の結果にどのように表れるかは、やってみないことにはわかりません。「あの人は頭が良いはずなのに仕事ができない」とか、そんなことが言われることもあるようですが、これは頭の良さを垂直思考のみと考えているからでしょう。「頭が良い」の意味もまた、垂直思考だけでは適切に捉えることはできません


子どもは学校での勉強を終え、やがては社会に出ていきます。そこで待ち受ける数々の「問題」をクリアしていくには、必ず水平思考が必要となります。それなら、学校教育でも水平思考の重要性を教えておく必要があり、そのためにも学校の先生は生徒の多様な答えを受け止め、それも立派な答えの1つであることを伝えた上で、垂直思考による論理的な答えを伝える必要があるのではないでしょうか。


学校は論理的な勉強を教えるだけの場所ではありません。人間関係という極めて複雑な課題が常に生じ続ける場所であり、日常のなかで生じる問題の答えは○か✕かで判断できないものが存在することを知るための場所でもあるはずです。


金沢氏が若い先生から聞いたリンゴのエピソードは、「学び」について、じつに示唆に富んだものでした。生徒の発言が「仏檀に供える」じゃなくて「1つ捨てる」であっても、当然、それもまた立派な答えの1つです。実際農家は、市場価格を維持するために獲れすぎた野菜を出荷せずにあえて畑に捨てることだってあるわけですから。


最初に答えありき、で物事を進めるのでは、すでに垂直思考に捉われてしまっています。柔軟に物事を考えることが実社会でいかに大切であるかを生徒に伝えることができなければ、社会に出て挫折する生徒を増やしてしまいかねません。金沢校長は「宗教心」という観点から若い先生に苦言を呈しましたが、宗教心でなくても同じことです。


先生が「教える」という意識だけでなく「学ぶ」という意識を持ち続けるなら、きっと生徒へ返す言葉も違ってくることでしょう。学ぶことに終わりはないのですから、先生だって生徒の自由な水平思考から学ぶことはたくさんあるはずです。大人も子どもと同じように、学ぶ心を忘れないようにしていきたいですね