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お布施の金額はなぜ「お気持ちで」なのか? 深すぎるお布施の意味

「お気持ちで」「お志しで」のお布施

葬儀や法事などの仏事の際に、我々僧侶はお布施をいただいている。
そんなお布施に関する一般の方々の最大の関心事は、やはりその金額ではないか。
菩提寺にお布施の相談をしたら、「お気持ちで大丈夫ですよ」「お志しで結構ですよ」と言われて金額に悩んだという話は本当によく耳にする。
お布施とは一体何なのかと、疑問に思われている方も大勢いらっしゃるのではないかと思う。


「お気持ちで」という答えは、質問にはっきりと答えずに回答をぼやかしているように聞こえるかもしれないが、何も意地悪を言っているわけではない。
しかしながら、なぜ寺院側が「お気持ちで」と答えるのか、その理由もまたあまり知られてはいないと思われる。


お布施は対価ではない

「お気持ちで」という言葉の奥には、一般にはなかなか理解されることのない「布施」という独特の考え方がある。
理解されることがないのなら、理解できるように説明をすればいいと思われるかもしれない。
しかしながら、布施というものの考え方が詳細に説明されることは実際にはあまりない。


なぜなら、お布施の金額を訊きに来た人に、布施という概念を長々と説明しても、
「そんな細かな話は訊いてないんだけど……」
と困惑されてしまいそうで、寺院側としても話すことを躊躇してしまうのが理由の1つ。


もう1つの理由は、布施の概念を詳細に辿っていけば、日本における現行のお布施はもはや本来の布施行ではないという矛盾に行き着く可能性があるからだ。
つまり布施を説明すれば、本来の布施の説明にはなるが、日本のお布施の説明にはならない可能性が多分にあるのである。


そこで結局、寺院側がどういった説明をすることになるかといえば、

  • お布施とは自発的に何かを与える行為を指すのであって、対価ではない。
  • 金額は、布施をされる方がそれぞれの立場で決めていただいて構わない。
  • 布施の金額を提示することは、対価ではないからそもそもできない。

となり、一般的な商用サービスに対する「対価」とは異なる性質のものであることを理解していただくという、大体このような説明となる。


これらの説明はもちろん間違いではないのだが、あくまでもこれは金銭の授受を前提とした「お布施」の説明であって、本来の「布施行」の説明ではないことを断わっておく必要があるだろう。
ゆえにお布施の意味を知るためには、金額での説明ではなくて布施という考え方自体について知る必要がある。

布施とは「ダーナ」=与えること

布施とはサンスクリット語の「ダーナ」という言葉の意訳であり意味は「与えること」
この「ダーナ」という言葉に音の合う漢字を当てはめたのが「旦那(だんな)」「檀那(だんな)」という言葉である。
檀家という言葉もこの「ダーナ」からきており、原意からいえば「布施をしている家」という意味になる。
同じ理屈で「大旦那」は、「多くの布施をする人」というほどの意味に。


妻が夫のことを「ダンナ」と呼んだりすることがあるが、あれは家の主を旦那様と呼んでいた昔の風習が転じ、妻も夫のことを旦那と呼ぶようになったのが元だと考えられる。
これらはすべて「ダーナ」、つまり「与えること」=布施という言葉に起因する仏教用語であることをまず知っていただきたい。

布施によって生活をする上座部仏教

古来、仏教僧侶は衣食住のすべてを一般の方々からの布施によってまかなっていた
現在でも南アジアの国々で暮らす上座部仏教僧侶の多くは、布施による生活を続けている。
午前中に托鉢に出かけ、昼前に寺院へと戻り、いただいたものを持ち寄って食事をする。
それが毎日のベース。
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なぜそのような布施による生活をしているのかと言えば、僧侶は自分で何かを生産するということが戒律で禁じられているからだ
だから僧侶は、ほとんど何も所持していないし、何も生産しない。
持ち物といえば食事の際のお椀や、最低限の衣服くらいのもの。


ただこの考え方は中国において大きく変容し、僧侶であっても自ら生産活動をするべきだとの考え方が、後々力を得てくる。
特に禅ではその考え方が強く、「一日作さざれば一日食らわず」という禅語があるように、畑を耕すなどの生産活動をすることが重要な修行と位置付けられるほどにまでなった
禅ではそうした労働を作務(さむ)と呼んでいる。
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ちなみに布施は「布を施す」と書くが、これは僧侶のために袈裟の材料となる布を施すという意味である。
僧侶が身につけている袈裟は、小さな布を縫い合わせた、いわばパッチワークのような構造になっており、その一つひとつの布は布施によるものというわけだ。
あらゆる品のなかで、袈裟のもととなる布を布施の代表に挙げたのは、袈裟が僧侶の目印であり不可欠なものだったからかもしれない。


いろいろな布施

あらゆるものの施しを受けることによって生活を続ける上座部仏教僧侶であるが、彼らは施しを受けるばかりではない。
何も所持していない僧侶も、ちゃんと布施をしている。
仏法を説いて、人々に心の安心を与えるという布施を行っている。


一般の方々が施すものは物であることが多いため、「財施(ざいせ)」と呼ばれる。
一方、僧侶が施すものは仏法であることから、「法施(ほうせ)」と呼ばれる。
「与えること」が布施という言葉のもともとの意味であるため、与えるものにはいろいろな種類があっていいのだ。


したがって「財施」と「法施」以外にも、たとえば「無畏施(むいせ)」と呼ばれる布施もある。
「畏れを無くす」ことを施すという文字どおり、これは不安を取り除くような行為を指した布施である。
災害被災者に寄り添いボランティア活動をする方々は、仏教という視点から見れば無畏施を行じていると見えるわけである。


そのほかにも「無財の七施」と言って、

  1. 和顔施(わがんせ):笑顔で対応する
  2. 眼施(げんせ):柔和な眼で向かい合う
  3. 言辞施(ごんじせ):優しい言葉をかける
  4. 心施(しんせ):人のために祈る
  5. 身施(しんせ):手伝いをする
  6. 床座施(しょうざせ):席をゆずる
  7. 房舎施(ぼうしゃせ):家に泊めてあげる

という、財がなくてもできる7つの布施というものもある。


布施とは金銭の授受だけを指すのではない。
法施や無畏施や無財の七施という考え方は、そのことをはっきりと伝えようとしている。
つまり葬儀や法事などの際のお布施は対価ではなく自発的な財施で、他方僧侶は読経や説法によって法施を行っていると考えるのが、本来の布施の考え方ということになる。


財施は自発的に行われなければそもそも布施にならないため、僧侶側が金額について口をはさむことは本来ありえない。
事前にお布施の金額を訊かれても「お気持ちで」と答えるのはそのためである。
「お気持ち」でなければ、それはもはや布施ではなくなってしまう。
「財」とは金銭であり、「施」とは気持ちのことだからである。
その2つが合わさることで、はじめて財施という行為が生まれる。


ただ、これでお布施について説明がなされ、かつ「お気持ちで」問題が解決するかといえば、全くそうではない。
布施を取り巻く本当の問題は、「お気持ちで」の真意を巡る、ここからなのだ。

布施という考え方

問題の本質に入る前に、仏典に出てくる話を1つご紹介したい。


ブッダの弟子に盲目の人物がいた。
ある日、この人物が自分の衣服のほころびを直すために針に糸を通そうとしたのだが、目が見えないためになかなか糸が通せない。
仕方なくこの人物は、縫うことは自分でやり遂げるから、針に糸を通すことだけは誰かに手伝ってもらおうと考えた。
そこで、次のように周囲に呼びかけた。
「誰か、この針に糸を通すことで徳を積みたい方はいませんか?」


話の続きは、ブッダが針に糸を通す役を買って出るのだが、続きはまあひとまず置いておこう。
それで、「誰か、この針に糸を通すことで徳を積みたい方はいませんか?」という、この言葉を聞いてどう思われるだろうか。
もし自分がこの盲目の人物であったとしたら、このように呼びかけるだろうか。


これはお布施に関する話ではないが、理屈は布施のそれと同じである。
注意して読んでいただきたいのだが、この言葉は
「針に糸を通してくれませんか?」
とお願いしているのとは少し違う。


「徳を積みたい人はいませんか? 今なら針に糸を通して人助けをするという徳が積めるように、私がその機会を提供させていただきますが
と言っているのだ。
何とまあ、ややこしい言い回しをするんだか。
素直にお願いすればいいのにと、感じはしないだろうか?

布施とは徳行であり修行である

この話にあるように、仏教において手伝うというのは徳行であり、修行となる。
布施は正式には布施行という名前が付いているほどで、紛れもなく修行である。
徳を積むための修行、「与える」という修行、それが布施行。
これは逆に考えると、修行でないものは本当は布施でないということでもある。
重要なのはそこなのだ。


布施をする者は自らの徳行として、修行として布施をするため、施しを受ける側がお礼を言ってしまうと対価に成り下がり修行にならない
僧侶は布施の場を提供しているのであり、布施行ができる状況を作りだすという役割を担っている。
それが僧侶の重要な仕事なのである。


そのような布施の考え方からいえば、お礼を言うのは布施を行う側でなければやはりおかしい
「布施をさせていただき、ありがとうございます」
「徳を積ませていただき、ありがとうございます」
それが布施というものの本質であり、布施を布施たらしめている根本である。


上座部仏教で、人々が僧侶に施しをし、合掌をして頭を下げるのにはそのような意味がある。
そして当然のことながら、そこで僧侶はお礼など言わない。
施しをさせてあげるのみである。


私たちの感覚からいえば、何かをいただいたにも関わらずお礼の一言もないのはあんまりじゃないかと思いたくなるが、そうではないのだ。
たとえ優しさから生まれた物品の授受ではあっても、それは徳行としての布施とはならない。
布施はあくまでも施す側にとっての修行だからである。


日本の布施

本来の布施とはそういうものなのだが、残念ながらこの理屈を日本で通すことは難しい。
日本にはこのような布施の下地になるような思想・慣習が存在しないからである。
それはとどのつまり、上座部仏教の僧侶のように托鉢によって生活をする僧侶がほぼ存在しないことに端を発する。


布施を布施行だと言うことができるのは、布施によって生きている僧侶にのみ許される発言だろう。
私を含め、蓄財をする僧侶にそれを言う資格はない。
お布施を布施行でなくしてしまっている張本人は、我々日本の僧侶自身に他ならない。


ただしそうであっても、お布施に「布施」という名前が付いている以上、我々はそれを明確に対価と判断することにもためらいを抱く。
本来の布施ではないと感じながらも、布施という側面を残しておきたいと思うのである。
それだけ布施というものの考え方には尊いものがあると考えているのだ。


実情は布施というよりも限りなく対価に近いものであるが、僧侶の読経・説法などの法施と同時に行われる財施こそがお布施であり、なるべくであればお布施を布施行として理解していただきたいとも思っている。
葬儀のお礼ではなく、独立した一つの「財施」という行為でお布施を捉えていただきたいのである。


日本におけるお布施は、名前のみの布施であって内実を伴っていないのは事実。
寺院によってはお布施をはっきりと対価と位置付けて、あえて料金設定を設けて明瞭化を図っているところもある。
それは「自発的」という布施行の大前提に抵触するものであり、もはや布施とはいえないものであるが、それでも安易に他の僧侶が批判できるものでもない


そのような寺院は、すでにお布施が布施としての機能を有していないことを考慮し、それぞれの地域の実状に合うお布施の形式を模索した上での結果でもあるからだ。
近年、ネットなどでお布施の金額を明記して仏教界から批判がなされたことがあったが、日本各地に存在する寺院の状況は千差万別であり、その運営の仕方を一様に規定することはできないだろう。
特に、寺院が一般社会の内側に存在し、経済の輪の中に存在する日本においては。

お布施のゆくえ

「布施」という名前をこれからも維持していくのか。
お布施は布施行であるという従来の主張を続けていくのか。
そうであるなら僧侶側は布施の本来の意味をもっと説明していかなければならないだろう
そして、布施行としての「布施」と、対価になりつつある「布施」がどう異なりどう同じなのかを説明し、納得していただく必要がある。
批判がでているのに問題を放っておくことはよくない。


もしくはいっそのこと、内実は布施から離れつつあるのだから名前や形態も「布施」とは別の名称に変化させてしまうか。
実際、すでにそのような動きは各所で見られる。
戒名料などというものは存在しないはずだが、便宜上そのような名称を用いるなど、布施を取り巻く状況は哀しいほどに混沌としている。


お布施が布施行となるには、布施をする側と、布施を受ける側が、ともに布施行を認識していなければならない。
それが布施の基本である。
私はお布施をいただいた際に「ご丁寧に」とだけ言って頭を下げるが、本当であれば「ご丁寧に、ありがとうございます」と言いたい。
が、そう言ってしまっては、お布施が布施にならない。
葛藤であるが、仕方がない。
仏教とともに布施という概念を輸入した日本であるが、そのような思想・慣習という下地のない日本では、布施という言葉だけが一人歩きをしてしまっているのが現状なのである。


お布施の金額という、非常に訊きにくいところをやっとの思いで訊いていただいたにも関わらず、「お気持ちで」と答えるしかない寺院側。
喪主も悩み、僧侶も悩んでいる。
どうすることが一番良いのか。


言葉を立てれば現実が立たず、現実を立てれば言葉が立たず。
結局のところ、矛盾をはらんだお布施の内実をまずは知っていただくことが第一なのだと思っている。
あらゆる分野で説明責任・情報の透明化が叫ばれる現代。
それは仏教においても、対岸の火事ではない。