「猫に小判」の意味を考える。
「猫に小判」という、あの超がつくほど有名な諺。
意味はもちろん、「価値あるものを価値のわからない者に与えても、何の役にも立たない」こと。
確かに猫に小判をあげたところで、何の役にも立つまい。
それだけで終ればいいのだが、実際にはそれだけでは終らない。
人間は往々にして「価値のわからない者」をバカ扱いする。
「愚か者だな、あいつは猫か」というように。
猫の価値観
しかし、バカなのは本当に猫のほうなのだろうか。
小判に価値がある、というのは本当なのだろうか。
小判に価値があるという話は、人間社会でのみ共有される価値観である。
猫の社会に小判に価値を認めるなどという価値観はない。
何の使い道もないのだから、猫にとって小判はまったく無価値なものである。
したがって猫の視点から考えるなら、「猫に小判」という諺は「無用の長物」と同等の意味となるだろう。
猫の社会では、小判なんてものは石ころと同様、無価値なものでしかない。
あげると言われたっていらないものだ。
つまり猫は決してバカではないのである。
むしろ、猫はちゃんとわかっている。
自分にとって小判が不必要なものであることをわかっている。
だから与えられても手にしない。
愚か者は誰か
バカとは、不要にも関わらず必要だと思って手を出してしまうような愚行を指す言葉である。
したがって猫には当てはまらない。
小判を絶対的に価値あるものと盲信し、価値の意味も知らず、自分にとっての常識が普遍的な常識であると勘違いをしているのは誰か。
自分が見ている世界を誰もが同じように見ているなどという思いは、まったくの勘違いでしかないのに、それに気が付かないのは誰か。
猫をバカ扱いするほど、人間は賢い生き物か。
小判がなくても平然としているのが猫。
小判がなくて心を乱すのが人間。
小判に捉われているのはいつだって人間のほうではないのか。
猫の仲間たち
ちなみに、猫には多くの仲間がいる。
真珠に見向きもしない豚。
念仏に耳をかさない馬。
論語を無視する犬。
説法の最中に寝る牛。
祭文を意に介さない兎。
自分にとって重要なものが、相手にとっては不要なもの。
そうしたすれ違いは、どうやら猫に限らず様々な相手との間で起こっているらしい。
ものの価値なんてものは人によっていくらでも変動するのに、「あいつは価値を知らない」とか、自分の理解でしか物事を考えることができないのだとしたら、それはひどく偏狭なものの見方だと言わざるをえない。
平面と多面体
人間は、哀しいが、見たいようにしか見ることができない。
考えられる範囲内でしか考えることができない。
だから思いもしないことを思うことは、人間にはできない。
でも、できなくても、できないと思っていることはできる。
もしかしたら相手はまったく別のことを考えているかもしれないと、可能性を考慮することはできる。
そう考えるだけで、思い込みという予断に釘を打っておくことができる。
1つの価値観で物事を論じるのは無益だ。
サイコロの1の面だけを見て、サイコロというのは1と書かれた四角い物体だと思い込むのと同じくらい無益である。
ちょっと角度を変えれば2の面や3の面が見え、反対側に立ってみれば6の面も見えるのに。
それをせずに、サイコロの真の姿を知った気になってしまうなら、過ちは避けられない。
物事は常に多面体をしている。
とりあえずの立ち位置として、そうした柔軟な場所からスタートすれば、自分の価値観がすべてでそぐわない他の価値観は排するなどという愚を犯す可能性は格段に減るのではないか。