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【南岳懐譲】瓦を磨いて鏡となす(南岳磨甎)- 禅僧の逸話 -

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【南岳懐譲】瓦を磨いて鏡となす(南岳磨甎)- 禅僧の逸話 -

南岳磨甎(なんがくません)」という有名な禅の逸話がある。
8世紀前半の中国での話。
南岳懐譲(なんがく・えじょう)という禅僧のもとに、馬祖道一(ばそ・どういつ)という弟子がいた。
ある日、馬祖が坐禅をしていると、そこに師である懐譲がやってきて問うた。
「馬祖よ、お前さんはずっと坐禅を続けておるが、何のために坐禅をしているのかね?」
「はい、仏になるために坐禅をしています
その答えを聞くと、懐譲は地面に落ちていた瓦をおもむろに手に取り、馬祖の横で黙々と磨きはじめた。


困惑したのは馬祖である。
なぜ、師は瓦を磨きはじめたのか。
磨いてどうするのか。
気になって、坐禅どころではない。
「あの、お師匠さま……何をしているんですか?」
「見てわからんか、瓦を磨いているんじゃ」
「磨いて、それでどうするのですか?」
「きれいに磨いて鏡にしようと思ってな」
「お師匠さま、お言葉ですが、いくら瓦を磨いても鏡にはならないと思うのですが……」
「まあ、確かにそうじゃな。しかしお前さん、それがわかっているのなら、どうして坐禅をして仏になろうなどと言ったのかね?
馬祖は、ハッとしたに違いない。


しかし師の意図を知ったものの、馬祖にはまだ坐禅が何なのか、仏が何なのかわからない。
「どうすれば仏になれるのでしょうか?」
訊ねる馬祖に、懐譲はこう答えた。
「お前さんが牛車に乗っていたとする。そこでもし牛車が動かなくなったら、車を叩くか、牛を叩くか、どちらだ?」
懐譲の問いかけに、馬祖は何も返すことができなかった。
そこで懐譲は続けた。
「お前さんの坐禅は、坐った姿の仏を手本としているにすぎない。坐禅の姿が仏の姿なのではないぞ。もし、坐禅によって仏になろうとするなら、それは仏を殺すことに等しい。坐禅という姿だけが仏だと思い込んでしまったら、いつまでたっても坐禅とは何なのかも、仏とは何なのかもわからんままだ」

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禅において坐禅は非常に重要な修行である。
しかしそんな坐禅も、「仏になるための手段」「悟りを開くための手段」として捉えてしまったなら、途端に坐禅ではなくなってしまう。
仏の行いをすれば、人はその時、仏として生きたことになる。
仏の行いとしての坐禅をすれば、人はその時、仏を行じているのである。
それはある意味で、瓦を瓦として受容するような、自分を自分として授与するような感覚に似ている。
何か別のものになろうというのではなくて、そのものが、そのもののあるべき姿を全うすれば、それ以外に仏などというものは存在しないのだ。


瓦を磨く懐譲は、こう言いたかったのではないだろうか。
「どうして瓦が鏡になる必要があるだろうか。
瓦は、磨いて瓦になるべきものである。
瓦としての本分を全うすれば、それ以上の在り方はない。
だから馬祖が仏になる必要などないのだ。
馬祖は、磨いて馬祖になればいい
馬祖になるということが、仏になるということなのだぞ」


仏などという概念に執着するのではなく、あなたはあなたを全うしなさい。
目的地としての自分(仏)と、それに到ろうとする自分とを、分けて考えてはいけない。
自分になることを求めているこの自分は、自分でなくて何なのか。
自分を相対化し、真実の自己とでも言うべき仏が存在するように考えては、自分という存在を見誤る。
禅が問題にするものは常に自分であり、その自分という存在を究明することこそが禅の修行である
自分の外に目を向けてしまえば、自分とは何なのかは永遠にわからない。


懐譲の言う牛車を動かしている牛とは、きっと自分のことなのだろう。
一方の車は、ただの器。
器をいくら叩こうと、磨こうと、真似しようと、それで牛車は進まない。
自分を明らかにする
それ以外に、牛車が前に進む方法はないという意味だったのかもしれない。


※「甎(せん)」は「瓦」の旧字。
※「甎」の異体字である「磚」を用いて「南岳磨磚」と表記する場合もある。