無我とは何なのか?
いやー、あの時は無我夢中で走ったもんよ。
頑張った甲斐あって町内運動会、最終種目のリレーで1位!
そんで我が地区が逆転優勝!!
あの頑張りはまさにあれだね、仏教でいうところの「無我」ってやつ?
わっはっはっ。
ちっがぁーーーーーう!!
無我夢中の「無我」と、仏教の「無我」は同じじゃなーーい!
え、そうなの?
何か違うの?
ぜんぜん違う。
一般的な文脈で使われる無我という言葉は、「無我の境地」とか、「無我夢中」とか、「何かに没頭して我を忘れている状態」を指している。
さっきダンゴが言っていたのもそういう意味の無我だろ?
しかし、そうした用法と、仏教が説く無我とでは意味が異なる。
同じ「無我」なのに意味が違うんかい。
ややこしいなぁ。
で、どう違うのさ。
アートマンと「我」
……ダンゴは、人間には魂みたいなものがあると思うか?
たとえば、肉体が消えても決して滅ぶことのない魂みたいなものが、自分のなかにあると思うか?
えっ、いきなりスピリチュアルな話?
あたしはあんまりそういうの考えたことないな。
魂のようなものがあるとは思ってない。
そうか。
でもインドでは、ずっと「ある」と考えられてきたんだ。
人は死んだら輪廻するというのがインド人の一般的な思想、というか常識だから、その輪廻の主体になるものとして魂のようなものを想定した。
それがなかったら何が輪廻してるのか? って話になってしまうからな。
そしてその主体となるものをアートマンと呼んだ。
アートマン……
……芸術野郎?
……アーティストのことか。
どちらにしろ「芸術野郎」は酷い!
……アートマンってのは魂のような、自分の核というか、永遠不滅の人間の本体みたいなもののことだ。
そしてこのアートマンという言葉を漢訳したのが「我」という言葉になる。
へぇ。
そんじゃあ仏教でいう「我」って、魂みたいなもののことだったんだ。
知らんかった。
でも、そんな魂みたいな「我」なんてものが本当にあるの?
いや、仏教では「ない」と考えている。
アートマン、つまり「我」なんてものは存在しないから「無我」。
これが「無我」という言葉のストレートな意味になる。
それまでのインドの常識とは違うことを言ったわけだな。
そして無我であるなら存在するのは容れ物としての肉体や精神作用だけであり、「自分」という存在はじつは存在していないんだと、こうなるわけだ。
???
ゴメン、最後のところの意味がちょっとわからんかった。
自分が存在しない?
そう、自分が存在しない。
……存在してるよね、ここに、あたし。
えっ? もしかしてじつは存在してないの!? あたし。
自分が「ない」と言われても意味がまったくわからんわ。
「我思う、ゆえに我あり」って言葉なかったっけ?
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の言葉は、存在するものが絶対に虚構ではないと言い切ることができなかったとしても、そのようにして何かを考えている自分だけは存在しているという主張だが、それはあくまでも脳が自分を認識しているという話だ。
物体としての自分は確かに存在しているが、その物体がはたして「自分」と呼べるものなのか。
人間は思考する機能を有しているから自分を自分と認識するが、では思考する機能がなくても、人は自分を自分と認識できるのか。
仏教が突くのはそこなんだよ。
認識がなかったら、自分を自分と認識することはできない。
「自分がある」という思いは、あくまでも認識の問題にすぎないと。
うーん、ちょっと話がややこしくてよくわからん。
抽象的すぎて実感がまるで湧かん。
ああ、すまん。
でもまあ、そうだろう。
自分が「ない」ことをすぐに納得できる人なんていないさ。
「ない」と言っても物体としては存在しているわけだし。
そこだよね。
どうしても「ある」としか思えん。
なんかさ、もうちょっと納得できるような方法ってないの?
そうだなぁ、じゃあ車で喩えてみるか。
車?
たとえば1台の車があったとする。
車は非常に多くの部品から成り立っている。
タイヤ、シャーシ、窓ガラス、座席、ハンドル、それから……。
それから、エンジンやライトやワイパーや、細かなものまで合わせたら膨大な数の部品になるけど。
そう、膨大な部品が集まって車という物体は出来上がっている。
つまり車というのは集合体に付けられ名前であって、車というものが存在するわけではない。
「車そのもの」という物は存在しないと言えばいいのか。
まあ、そう考えることはできるね。
家だって、家っていう物体があるわけではないんだし。
厳密に考えれば、の話だけど。
逆に言えば、厳密に考えないと家も車も「ある」ように思える。
それはつまり、脳がショートカットしているということなんじゃないかな。
存在することに関する厳密なルートを辿るんじゃなくて、学習結果として家っぽい形のものを見たら瞬時に家と認識するように頭がショートカットしているんだ。
そのほうが効率的だから。
車を見て、脳が一々「あの車は車であって車でない」とか考え出したら、そりゃあ普段の生活がしにくいったらありゃしないだろうね。
ははは、そうだろうな。
すべてを厳密に確かめるなんてことは普段の生活では効率が悪すぎるから、脳はある程度予測というか予断というか、過去の経験やら記憶やらの学習結果を参考に、「たぶん」で判断している。
目で見て認識する以外にも、匂いだけでカレーを認識したり、音だけで小鳥を認識することもできる。
それがもっとも効率的な生き方なのかもしれないが、しかし勘違いも避けられない。
ないものをあるように感じるというような。
効率的に生活するんなら、それも仕方ないかもね。
存在は、じつは存在しない
話を車に戻そう。
各部品の組合せによって出来上がった車は、個の総和を超えて「乗せて動く」という機能を有するようになる。
複雑に部品が関係しあった結果、単なる個の総和ではなくて、プラスαが生まれているんだ。
そうだね。
動かない車はガラクタであって、動くという機能があってこそ車と呼べるんだと思う。
そう。
じゃあ、車って何なのか。
形が車なのか、機能が車なのか。
車って何だと思う?
……ふーん、なるほど。
車というのは個の部品の集合体に付けられた名前であって、車という実体は存在しない、ということが言いたいわけね。
そういうこと。
車というのはあくまでも名称に過ぎなくて、車という物体があるわけではない。
あるのは、部品が集まってできた物体だけ。
その物体を車と呼ぶうちに脳が学習して、やがてその形をした物体を車とイコールで結ぶようになるが、それは脳が勝手にそうしているだけのことで、実際は車なんて物はないということ。
うーん。
人もそれと同じだってこと?
いろんな細胞とかが集まって脳とかで複雑な意識の作用が生まれているけど、実体として人間なんてものはないと?
そのとおり。
人が自分を自分と認識するのは、そう認識しているだけの話なんだよ。脳内だけの話。
いろんな要素が集合した結果、人間には「考える」というプラスαが生まれた。
脳のはたらきが生まれたってことだな。
この「脳」という優れた思考機能と、目や耳といった外界を認識する器官が組み合わさり、ないものでもあるように「思い込む」ことだってできるようになってしまったというわけだ。
だから考える脳というのは、諸刃の剣と言えるかもしれんな。
抜群に役に立つが、真実を惑わせもする。
まあ、言いたいことはわからなくもないけど……。
あのさ、根本的なところで1つ訊いていい?
とりあえず無我だってことはいいとして、それで何か変わるの?
実際の生活のレベルで、何かいいことでもあるの?
大いにある。
そもそも人間が苦悩するのは、自分が「ある」と疑わないからこそ起こる現象だといえる。
たとえば死にたくないと思うのは、自分が死ぬことに苦悩しているわけだろ?
しかし、もし、そもそも自分なんてものが最初から「ない」のだとわかったら、自分が死ぬことに苦悩すること自体が成立しなくなる。
死ぬ自分がそもそも最初から存在していないんだから。
頭に妄想を浮かべて、妄想に怖れて苦悩していたことに気付くというわけだ。
マジか……。
死の恐怖が妄想って、凄すぎる発想だね。
重要なのは、頭で理解するというレベルではなくて、いかに実感として無我を腑に落とすか。
頭ではなくて体験というか実感として納得できなければ、苦悩は消えない。
逆に、本当に無我を悟ったなら、苦悩の大部分は消えるといえる。
ほほぉ。
大部分ってことは、少しは残るの?
残るものはある。
たとえば、いかに無我という真理を悟っても、脳は相変わらず作用し続けるから、痛みなどの感覚は現実に感知され続ける。
無我を悟ったからといって痛みや疼きや痒みといったものまで消えるわけではない。
なにせ、悟りを開いたブッダも、亡くなる前に腹痛で随分と苦しんでいたことが仏典にありありと記されているくらいだからな。
そっか。
じゃあ、頑張って無我を悟っても、あんまり意味ないかもね。
いやいや、そんなことはない。
無我、つまり自分というものが本当はなく、脳が「ある」かのごとくに認識しているだけだとわかったなら、今度は「自分のもの」もまた妄想であることがわかるようになる。
自分がないんだから、自分が所有するものだってない。
つまり、「所有」に根拠がなくなり、執着が消えるんだよ。
欲しいって思いがそんな簡単に消えるかねぇ。
消えるとも。
ただし、繰り返しになるが無我を頭で捉えているうちは無理だろうな。
単なる理解ではなくて、本当に無我であることを悟ったら、ということだ。
自分がなければ、自分のものだってない。
車が実体として存在しないように、どんなものも実体としては存在しない。
……なんだか雄大な自由の世界に入っていってしまいそうだわ。
ないない尽くしで、最終的にどうなっちゃうのかね……。
うーむ、それはお父さんにもわからんが、ダンゴが言ったように、きっと自由なんじゃないのかな。
自分が存在しないということは、自分と他者との垣根がなくなるということだから、真の意味で万物を自分と感じて自由になるんじゃないか。
自分に関する苦悩も、もはやないわけだし。
何者でもないからこそ、何者でもあるというような境地かもしれん。
うーむ。
まさに悟りという感じだね。
奥が深いぜ……!!
【つづく】