禅の視点 - life -

禅語の意味、経典の現代語訳、仏教や曹洞宗、葬儀や坐禅などの解説

喝といえば心越興儔と水戸黄門。それから『スラムダンク』。

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禅僧のエピソードと『スラムダンク』から考える、喝

禅の世界には一字関(いちじかん)とか一転語(いってんご)とか呼ばれる、ちょっと変わった特殊な言葉がある。
この一字関(一転語)とは、その一言でもって相手を真理に導く、気付かせる、悟らせるための言葉のこと。
なかでももっとも有名な一字関は、おそらく「」。


「喝ァ――――――――ッ!!!!」
と大声で叫ぶ、あれである。


アニメなどで喝を耳にしたことがあるかもしれないが、実際の生活のなかでこのような一喝を見聞きしたことのある人は少ないに違いない。
唯一可能性があるとすれば、葬儀の際だろうか。
禅宗の葬儀では引導のなかで一字関を放つ瞬間があり、人によってはそこで「喝」を用いる場合があるのだ

引導とは導きの言葉

そもそも引導とは、故人を悟りへと導くために読むもの。
その引導のなかで一字関を放つことによって、迷いを吹き飛ばし真理に目覚めさせる契機とする
それが引導である。


そのような引導の意図を考えたとき、喝はいかにも相性が良い。
ほとんど叫ぶために存在するかのような言葉だからである。
まさに、迷いを払い真理に気付かせるという引導の意義にピッタリ。


ちなみに一字関は喝だけでなく、
「露(ろ)――――――――ッ!!!!」
とか
「咦(い)――――――――」

というバージョンもある。
ほかにもまだあるにはあるが、曹洞宗ではだいたいこの3種のうちのどれかが用いられる場合が多い。


ちなみに、それぞれの言葉の意味は、
喝は、大声で叱ることで一気に大事なことを気付かせようとする言葉。
露は、真理は目の前にあらわれているのだから、今しっかりとそれを見よという言葉。
咦は、誤った考えを笑い飛ばして正しい道に導こうとする言葉。
である


そのどれもが一言でもって相手の境地を180度転じさせ悟りへと導くことを目的とする言葉であることから一転語と呼ばれ、また一言で悟りの関所を通過させようとする言葉でもあることから一字関とも呼ばれている。


心越興儔禅師と水戸黄門

喝にちなんだ禅僧のエピソードはいくつもあるが、有名なのは、黄門様の愛称で親しまれている水戸光圀と、その光圀に禅を指南した心越興儔(しんえつ・こうちゅう)禅師との間で交わされた、少々問題ありの次の話ではないか。


心越禅師はもともと、中国は明の人であった。
しかし明が滅んで清が興ったとき、難を逃れるようにして日本へと渡来した。


無事に日本の長崎にたどり着いたのはよかったのだが、今度は異派の僧から目を付けられて幽閉されてしまう。
一難去ってまた一難の人生。
しかし心越禅師の力量は確かであったようで、あるとき禅師の噂を知った水戸光圀が心越禅師を牢獄から助け出し、水戸へと迎えることとなった


光圀は時折この心越禅師と会って話を交わしていたが、ある時、禅師の胆力を試してみたくなった
時代劇と同様、やはり黄門様には茶目っ気があったらしい。
光圀は心越禅師を城に招き酒席を用意し、禅師に盃を渡して家臣に酒をなみなみと注がせた。


「さあ禅師、召し上がってくだされ」
と酒をすすめ、禅師が酒を飲もうと盃を口に近づけた瞬間、すぐ隣の部屋に潜ませておいた別の家臣が鉄砲を一発、巨大な音とともに発射させた。

「ズドーン!!」

当初から鉄砲で心越禅師を驚かせる算段となっていたのである。
発砲の轟音が響き渡る酒席のなかで、しかし心越禅師は動じることなく酒を飲んでいた
鉄砲の音に驚いて盃を落とすのではないかと予想していた光圀は、一滴の酒もこぼさない心越禅師の姿に驚いた。


「禅師、今しがたは失礼した」

「失礼? 何のことですかな?」

「いや、禅師を驚かせようと思って家臣に鉄砲を撃たせたのだ」

「ははは、鉄砲は武士の常でございましょう。いつなんなりと撃っていただいてかまいません」


そう言って飲み終えた盃を返盃し酒を注ぐと、光圀は酒を飲もうと盃を持ち上げた。
そして今まさに飲もうとするそのとき、禅師は大声で叫んだ。

「喝ァ――――――――ッ!!!!」

雷のような大声を浴びて光圀は驚き、思わず盃を落としてしまった。あたりは酒びたしになった。
「なにをなさるか!」
と詰め寄る光圀に対し、禅師は飄々と言った。
喝は禅家の常ですからのう
まあ、許してくだされ、とでもいうようなのんびりとした心越禅師の姿に、光圀は敬服したという。

肝力と、禅で考える心の在り方

このエピソード、いかにも心越禅師の肝力を褒め称えんとする構成となっているが、ちょっと出来過ぎな話に思える。
第一、すぐそばで大きな音が鳴れば反射を起こすのが人間の常で、反射を起こさないことが肝力の証明というのはいかがなものか。
驚かないことが肝力だという前提でこのエピソードは成り立っているが、そもそもこの前提も納得いかない。


以前、下の記事で「悟り」を題材に記事を書いた。
www.zen-essay.com
そこでも述べたのだが、悟りとは何かを感じない、あるいは動じないことではなく、動じて揺れた心がもとの心へちゃんと戻ること、余計な執着をおこさないことだというのが禅の主張である


大きな音が鳴れば驚く。そ
れは生理的にも自然なこと。
それを感じないようにしようというのは、あたかも感覚を岩のような無機質なものへと変化させようとしていることと同じで、そこには人間としての豊かな精神性が感じられない。
驚かないことそれ自体に、特に尊ぶべき要素はないのである。


禅は心を枯れ木にすることではない。
柔らかくすることである。
たとえばゴムのように、外部からどんな衝撃が加わっても、一時は姿を変えて凹むけれどすぐにもとに戻るような精神を維持しようというものである
粘土のようにいつまでも凹んだままでいるのではなく、ガラスのように砕けるような硬さを求めるのでもない。
やはりそれは柔軟なゴムのような心を目指すものだ。


だから私は、心越禅師は別に盃を落としても一向に構わなかったと思っている。
「あービックリした」
で、了じることができれば、それで何も問題ないと。


そこから
「あの黄門野郎、オレを試しやがったな」
とか
「オレに恥をかかせやがったな」
とか、影響を引きずって執着の心を起こさないことのほうがむしろ断然重要だろう


『スラムダンク』と喝

もう1つ、喝という事柄を考えたとき、どうしても好例と思え頭に浮かんでしまう漫画の一場面があるので、おまけ的にちょっとご紹介させていただきたい。
週刊少年ジャンプで人気を博し、今やバスケ漫画、いや、スポーツ漫画、いや、あらゆる漫画のなかでも伝説ともなっている『スラムダンク』の一場面である。


『スラムダンク』の愛読者はおそらく大勢いることと思うが、ご多分に漏れず私もその中の1人。
小学生の頃から、一体これまでに何度読み返したことか。
25巻~31巻(最終巻)の山王戦に関していえば、リアルに100回くらいは読んでいると思う。


今回取り上げる喝もその山王戦でのこと。ずばり、28巻。
湘北高校のキャプテン、赤木剛憲の一喝だ。

山王戦のあらすじ

高校バスケの頂点を決めるインターハイに出場した湘北高校は、二回戦で早くも高校バスケ界の頂点に君臨する山王工業と対戦することとなった。
前回大会で山王は優勝を果たしており、その時のスタメンのうち3人が今年のスタメンにも残っていた。
G(ガード)の深津、F(フォワード)の沢北、C(センター)の河田。


超高校級の3人を擁する山王に対し、湘北は善戦を繰り広げる。
そして前半を2点のリードで折り返した。
無名の湘北が王者山王にリードを保ったまま前半を折り返すなど、誰も想像していない結果だった。


しかし、後半に入り流れは一変。
山王が得意とするゾーンプレスにまったく対応することができない湘北は、一気に20点もの点差をつけられてしまう。
「諦め」の気持ちが湘北を襲い、もう追いつくことは不可能と思われた湘北であったが、安西監督の采配により、主人公の桜木花道のリバウンドが開花
悪い流れを止め、湘北が息を吹き返す。


しかし、それでも山王にはなかなか追いつけない。
何かが足りない。
何か……それは、湘北のキャプテン、赤木


山王のセンターである河田に抑え込まれ、1対1でまったく歯が立たない赤木は、河田に対する意識ばかりが募り、チーム全体を見渡す余裕を失っていた。
そして湘北選手もまた、苦しいときほど踏ん張って湘北を支えていた赤木がはじめて完全に抑え込まれてしまったことにより、土台から崩壊するような脆さを露呈しはじめていた。


湘北最大のピンチともいえるこの状況で、湘北と同じ神奈川県のライバル校のキャプテンであり、客席で観戦していた陵南高校の魚住が動く。
ゴール下でパスを受け取った赤木が、フリーの状態にも関わらず躊躇をしてしまい、ダンクを試みるもディフェンスに入った河田に覆い被さるようにファウルをしてしまい、倒れ込んでしまったのだ。


ここで魚住は赤木の元になぜか板前姿で現れ、対河田意識過剰で自分を見失っている赤木を次のように諭した


「華麗な技をもつ河田は鯛…」
「お前に華麗なんて言葉が似合うと思うか 赤木」
お前は鰈(かれい)だ
「泥にまみれろよ」


河田は河田、赤木は赤木
魚住の発した言葉の意図を理解し、赤木は大切なことに気付く。
以下に赤木が自分に対する一喝を放つまでの思いを、漫画の画像とともに引用したい。

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「……!!」


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「オレが河田に勝てなければ湘北は負けると思っていた……」


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「オレがだめでもあいつらがいる」
「あいつらの才能を発揮させてやればいい」
「そのために体を張れるのはオレしかいない」


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「おそらく現段階でオレは河田に負ける」
「でも」
「湘北は負けんぞ――」


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「あーーーー」

(出典:『スラムダンク』28巻、集英社)

喝とは何か?

何とも見事な一喝。
赤木は自分の心の内で自分を見失わせていた原因である「迷い」を振り払うために吼えたのだった
自分に対しての喝である。


このような迷いを払う心の底からの叫びこそ、喝の正統というべきものだろう。
理想的な精神状態にいたるには、やはり迷いを払う必要があるということか。


考える、という営みは極めて重要である。
しかし物事は頭のなかに存在しているわけではない。
真実とはいつだって目の前に存在している。


だから真理について頭で考え続けていれば真理を悟ることができるかというと、そうではない。
目の前のあるものを見よ。そしてそこに存在する真理をそのまま受け取りなさい
禅はそう説く。


考えることで迷いが生まれてしまうような状態であれば、一旦考えるをやめてみる。
妄念を振り払って、頭のなかを空っぽにする。
頭は時に妄念に取り憑かれることがあり、そしてそれが妄念であることに、当の本人はなかなか気付けない。


それらを吹き飛ばす魔法の言葉が、そう、なのだ。


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