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【関山慧玄】 雨漏りと小僧とザル対応 - 禅僧の逸話 -

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【関山慧玄】 雨漏りと小僧とザル対応 - 禅僧の逸話 -

臨済宗妙心寺派の本山、妙心寺。
その妙心寺の開山(初代住職)である関山慧玄(かんざん・えげん)禅師には、ちょっと有名な逸話が残っている。
雨漏りとザルの話、といえばピンとくる方がいるかもしれない。
こんな話だ。


当時、妙心寺の伽藍は相当古かったのか随分と傷んでいたようで、ある雨の日に雨漏りがした。
ぽた、ぽた、ぽたり。
天井から滴り落ちた雨粒が畳を濡らしていく。
「おーい、雨漏りだ。急いで何か雨水を受けるものを持ってまいれ
住職の関山禅師は小僧たちに声をかけた。
はいっ、と返事をした小僧たちは、蜘蛛の子を散らしたように雨を受けるものを探しに行った。


すると1人の小僧が、間髪入れずに戻ってきた。
見ると、手にはザルが握りしめられている
返ってくる早さから察するに、何か特定の物を探したのではなく、おそらくそこら辺にたまたま置いてあった物を摑んで持ってきたのだろう。
「和尚さん、持ってきました」
小僧はすぐに雨漏りをしているところへ歩み寄ると、手に持っていたザルをそっと畳の上に置いた。
屋根から漏れた雨水はザルのなかに落ち、そしてザルの編み目から漏れ出ていった。


しばらくすると他の小僧たちも戻ってきた。
桶など、それぞれ何かしらの雨受けになるものを持参している
小僧らは雨漏りをしているところへ近寄りそれらを置こうとしたが、しかしその場所にはすでにザルが置かれていた。
なぜ……ザル?


「なんでザルが置いてあるんだ」
「ザルで雨を受けることができるもんか」
「誰だ、こんな無駄なものを持ってきたやつは」
小僧らはザルを持って一番最初に戻ってきた小僧を口々にバカにした


そんな小僧らの言動を黙って見ていた関山禅師は、すっくと立ち上がって小僧たちの傍へ歩み寄った。
そして、ザルを持ってきた小僧にこう言った。
よくザルを持ってきたな。これを待っていたんだ
ザルで雨を受けることができるか、このバカ者! と叱られるものとばかり思っていた他の小僧らは、関山禅師の言葉に驚いた。
なんでザルを褒めるんだろう?
ザルの編み目から雨がこぼれていってしまっているのだから、ザルを置いたところで無意味なのに。


小僧らは納得がいかない。
すると関山禅師は呆然と突っ立っている他の小僧らのほうを向いた。
「お前たちは何を持ってきておるのだ、バカ者!」
驚いたことに、桶などを持ってきた小僧らが、逆に叱られてしまったのである
一体どういうことなのか。
小僧らはまったく訳がわからないのであった。
これが関山禅師の有名な逸話、雨漏りとザルの話である。

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思考と非思考

この話を読んだ人は例外なく疑問に思うことだろう。
なぜ、関山禅師はザルを持ってきた小僧を褒めたのか。
私は相当不思議に思った。
桶を持ってきて褒められるのなら理解できるが、ザルでは用をなさない
雨を受けとめられていないではないか。
理解不能だ。


が、今ではこう考えるようにしている。
以前、車の事故で、赤信号を無視したトラックが交差点に進入し、横から走ってきた車と出会い頭に衝突し、そのまま歩道に乗り上げ、歩いていた母子とぶつかるという、痛ましくやるせない惨事があった。
その事故の際、母親は子どもを抱きしめるようにかばったのではないかと言われていた。
奇跡的に子どもは軽傷で済んだからだ。
ただ、母親は亡くなった。
平穏な日常が音を立てて崩れてしまった家族の心情を想うと、無念でならない。


母親は、とっさの判断で子どもをかばうように抱きしめた。
いや、それは判断ではなく、思考を介さない、まさにとっさの行動であったに違いない。
猛スピードで突っ込んでくるトラックとまともにぶつかれば、人などあっけなく突き飛ばされてしまう。
全身を強打して死んでしまうかもしれない。
もし考えるという過程を踏めば、トラックに対して防御は得策ではない。
何とかして避ける方法を選択するだろう。


しかし、母親は避けることはしなかった。
仕方のないことである。
トラックが自分たち目がけて突っ込んでくるなど思いもよらないし予想できるはずもない。
突然そんな状況に直面して、考える余裕なんてない
だから避けることはできなかった。
けれどもそのかわりに、子どもをかばった。
その行為をバカにする人は1人もいないはずだ
たとえトラックに防御で立ち向かうことが「思考の上では」得策ではなかったとしても。


とっさの判断というものは、理屈ではない
そこには善悪がない。損得もない。打算もない。
じっくりと頭で考えれば「否」という答えが出るかもしれないが、その「考える」というプロセスを抜きにして、ほとんど本能的に瞬時に反応をしなければいけない時が、人生にはある。
あの母親のように。

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人はまっさらな心で想起したものを、次の瞬間に思考を織り交ぜて損得勘定して考えてしまう生き物だ
そして禅は、その思考の末に形成された判断や行動を、時に激しく戒める。
思慮以前の心を呈してみよと、一直線に心臓を突いてくる。
禅は間髪を入れない対応を褒めるが、それは思慮分別が加味されていない、心そのままの在り方が表れているからだろう。


子をかばった母親が、もしもとっさに防御をするのではなく、子どもを抱き上げて横に飛びトラックをかわしたとしたら、それはそれで称賛される行為となったのだとは思う。
瞬時に物事を考えて判断し行動することも、もちろん悪いことではない。
禅はそのような判断を否定したいのではなくて、判断できなくてもいいのだということを言いたいのである
冷静に考えれば「否」なことでも、瞬時にそう体が動いたのなら、それはそれでいいのだと。
たとえ非常識と言われるようなことであっても、瞬時にそうしたのなら、それを否定する道理はないのだと。


雨を受けるものを持ってまいれと言った師匠。
とっさにザルを手に取った小僧。
それは、とっさに我が子を守ろうと抱きしめた母親の行為と、ある意味同じ種類のものなのではないか。
車から守れるかどうか、トラックとぶつかったらどうなるか、そんなことを考えるのではなく、自然と体がそう動いたというところにこそ、理知を超えた生命の不思議なはたらきがある
理屈ではない。
ザルを持ってきた小僧さんを褒めたのは、その行為に理知を超えたものをみたからではないだろうか。
だから関山禅師はあくまでもザルを褒めたのではない。
間髪入れずにザルを摑んだ小僧の行動をこそ褒めたのである
ちょうど、とっさに我が子を守ろうとした母の行動のように。


禅問答はわけがわからない。
ただあべこべのことを言っているだけのように聞こえ、そこには論理も何も存在しないように思える。
煙にまくようなことばかり口にする。
単に、適当なことを口走っているだけのようにも聞こえる。


しかしそれは、言外の言を感受することができないというだけのことだったんだと、いつからか思うようになった。
師から発せられた1つの言葉に何年も取りかかって言外の言を見出そうと、かつての禅僧らは努力してきた。
血が滲むほどに。
それを、一読してわけがわからないから意味のない言葉なんだと思うのは、どう考えたって早計というもの。
そう思うようになってから少しずつ、禅の言葉が味わい深いものになってきた
人に知ってもらいたい言葉なんだと思うようになった。


雨漏りにザル。
とっさにザルを持ってきた小僧を、どうしてバカにすることができるだろう。