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観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)の意味と現代語訳

観世音菩薩,観音経

観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)の意味と現代語訳


「観音経(かんのんぎょう)」や「世尊偈(せそんげ)と呼ばれることの多いこのお経の経題は、正確には『妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)』という。
『妙法蓮華経』というのはいわゆる『法華経』のことだが、現在では略称である『法華経』のほうが一般的な名称として浸透しているような気もする。


『法華経』には全部で28の章があり、1つひとつの章のことを「品(ほん)」と呼んでいる。
つまり『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』とは、『妙法蓮華経(法華経)』のなかの「観世音菩薩普門」という品(章)という意味である。


冒頭の「観音経」という略称は、この「観世音菩薩普門品」を縮めたもの。
もう一方の「世尊偈」とは、この経典の偈文の最初の言葉が「世尊妙相具」からはじまるので、その頭の2字からとった略称である。
偈文というのは本文のあとについてる偈(漢詩)のことで、内容は本文と概ね重複しており、エッセンスを詩にしたためたような文章となっている。


「観音経」の難しさは念彼観音力


観音経を単に現代語に訳すこと自体は、決して難しいことではない。
漢字の意味を現代の適する語句に変換していくだけなのだから、漢字に慣れ親しんでいる分、英語を訳すよりもよっぽど楽である。


難しいのは訳すことではなくて、経典の文言をどう解釈するかという点。
特に観音経では「念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)」という1フレーズをどう解釈するかによって、観音経に対する理解がまったく異なるものになる。
難しいのはここだ。


「念彼観音力」は、通常
「彼の観音の力を念ずれば」
と訓読されることが多い。


「あの観音様の力を念ずれば……」なんとかなる、という意味である。
困った時の神頼みのように、観音様の力を念ずることで救われる、という意味の言葉と読める。
阿弥陀信仰の「他力」のように、観音様の救いの力を想定して読むというのであれば、それは立派に1つの仏教的解釈なのだろう。


ただし、個人的にはどうしてもそう読むことができない。


「念彼観音力」とは、人間には誰しも観音菩薩のように生きていくことのできる力が具わっており、その力を自覚して菩薩のごとくに生きていくことを意味した言葉だと私は考えている。


どのような人のなかにも、菩薩のように生きていくことのできる素晴らしい力がある。
親切にするのも、楽しい気分にさせるのも、あるいは叱るのも、誰かのために行われる心の通った行為はすべて、菩薩の生き方である。


別に菩薩でなくても、「仏として生きていく」という表現でもいい。
名称は何でもいい。
重要なのは、今自分はどう生きているか
自分がどう生きているかによって今の自分の存在意義が決まってくる、という事実である。


今、菩薩の如くに生きているのなら、今の自分は菩薩にほかならない。
しかし、そう生きた人であっても、次の瞬間に言い争いをして修羅の心が芽生えたなら、もう修羅として生きていることになる。


だから今の自分を規定するのは、今の自分の生き方にほかならない
過去に何をしたか、未来に何をするかによって、自分が何者かになるのではないのである。
一瞬一瞬の中にしか、自分の意義は存在しない。


そのようにして、菩薩として今を生きていくだけの力が自分に具わっていることを忘れず、その力を信じ抜くことが、念彼観音力。
「彼の観音力を念ずる」とは、どこかにいる観音様に救いを求める言葉ではなく、この自分自身に具わっている観音様のごとき力を信じて、勇気をもって観音菩薩として生きていくことなのではないだろうか。


ここではそのように「念彼観音力」を解釈し、「観世音菩薩普門品偈」を現代語訳して読んでみたい。


妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈の現代語訳と訓読文


※原文、訓読文、現代語訳文の順に記載する。

世尊妙相具せーそんみょうそうぐー 我今重問彼がーこんじゅうもんぴー 仏子何因縁ぶっしーがーいんねん 名為観世音みょういーかんぜーおん

訓読文


世尊は妙相を具す。
我、今彼に重ねて問う。
仏子は何の因縁によりて、名を観世音となすやと。

現代語訳


尊い人間性がその姿に表れているブッダに、無尽意菩薩は問いかけた。
「仏の道を歩む菩薩のような人々のことを、どうして観音様と呼ばれるのでしょうか」
と。

具足妙相尊ぐーそくみょうそうそん 偈答無尽意げーとうむーじんにー 汝聴観音行にょーちょうかんのんぎょう 善応諸方所ぜんのうしょーほうしょー

訓読文


妙相を具足せる尊は、偈にて無尽意に答う。
汝、観音の行の、よく諸の法所に応ずるを聴け。

現代語訳


ブッダは偈によってその問いに答えた。
「観音菩薩のごとくに生きようと志す者達が、様々な場所で人々の願いに応じている姿をよく見聞しなさい。

弘誓深如海ぐーぜいじんにょーかい 歴劫不思議りゃくごうふーしーぎー 侍多千億仏じーたーせんのくぶつ 発大清浄願ほつだいしょうじょうがん

訓読文


弘誓の深きこと海の如く、劫を歴ても思議しえざらん。
多く千億の仏に侍して、大いなる清浄の願いを発せり。

現代語訳


菩薩として生きようとする誓いは海のように深いもので、とても想像の及ぶところではない。
数え切れないほどの時間を優れた人物の傍について学び、影響を受け、そうして菩薩として生きようとする願いを起こしたのだろう。
その尊い生き方を讃え、そのような人々を観音様と呼んでいるのである。

我為汝略説がーいーにょーりゃくせつ 聞名及見身もんみょうぎゅうけんしん 心念不空過しんねんふーくうかー 能滅諸有苦のうめつしょーうーくー

訓読文


我、汝の為に略して説かん。
名を聞き及び身を見て、心に念じて空しく過ごさざれば、よく諸有の苦を滅す。

現代語訳


私はあなたのためにもう一度、菩薩としての生き方を説く。
菩薩として生きる人々の名を聞きなさい。
その姿をよく見なさい。
心に想っていつも忘れないようにしなさい。
そうすれば、もろもろの苦悩は消滅するだろう。

仮使興害意けーしーこうがいいー 推落大火坑すいらくだいかーきょう 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 火坑変成池かーきょうへんじょうちー

訓読文


たとえ害意を興され、大なる火の坑へ推し落とされるも、彼の観音力を念じれば、火の坑は変じて池と成る。 

現代語訳


たとえ人に害意を持たれて、奈落の底に落とされるようなひどい目に遭っても、菩薩として生きることを忘れなければ、怒りの炎は燃え盛ることなく心は穏やかでいられる。

或漂流巨海わくひょうるーこーかい 龍魚諸鬼難りゅうぎょーしょーきーなん 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 波浪不能没 はーろうふーのうもつ

訓読文


或いは巨海に漂流して、龍や魚や諸鬼の難あっても、彼の観音力を念じれば、波浪に没すること能わず。

現代語訳


欲の心が出て欲の海に漂流してしまい、様々な誘惑に負けそうになっても、菩薩として生きることを忘れなければ、欲にも溺れずにすむ。

或在須弥峯わくざいしゅーみーぶー 為人所推堕いーにんしょーすいだー 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 如日虚空住にょーにちこーくーじゅう

訓読文


或いは須弥峰に在って、人の為に推し堕とされる所となっても、彼の観音力を念じれば、日が虚空に住するが如し。

現代語訳


人の裏切りなどに遭い、山から落とされるようなショックを受けることがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、太陽が空に浮かんでいるがごとくに悠々としていられる。

或被悪人逐わくひーあくにんちく 堕落金剛山だーらくこんごうせん 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 不能損一毛ふーのうそんいちもう

訓読文


或いは悪人に逐われて、金剛山より堕落するとも、彼の観音力を念じれば、一毛として損ずること能わず。

現代語訳


悪い心が湧き起こって道を踏み外すことがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、怪我をすることなく仏の道に戻ってくることができる。

或値怨賊繞わくちーおんぞくにょう 各執刀加害かくしゅうとうかーがい 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 咸即起慈心げんそくきーじーしん

訓読文


或いは怨賊の繞むに値って、各刀を執って害を加えようとも、彼の観音力を念じれば、咸即ち慈心を起こす。

現代語訳


敵意をもたれ、嫉みや恨みを買って危害を加えられるようなことがあったとしても、菩薩として生きることを忘れなければ、やがて相手の心にも慈しみの想いが生じてくる。

或遭王難苦わくそうおうなんく- 臨刑欲寿終りんぎょうよくじゅしゅう 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 刀尋段段壊 とうじんだんだんえー

訓読文


或いは王難の苦に遭い、刑に臨んで寿終わらんと欲せんに、彼の観音力を念じれば、刀尋いで段段に壊れる。

現代語訳


暴走した権力によって不当な処罰を受けることがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、そうした権力はやがて滅びていく。

或囚禁枷鎖わくしゅうきんかーさー 手足被杻械しゅーそくひーちゅうかい 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 釈然得解脱しゃくねんとくげーだつ

訓読文


或いは囚われて枷や鎖に禁じられ、手足に杻や械を被ろうとも、彼の観音力を念じれば、釈然として解脱することを得る。

現代語訳


制限を受けて自由に生きることができないときもある。
それでも菩薩として生きることを忘れなければ、心は束縛されずに自由でいられる。

呪詛諸毒薬しゅうそーしょーどくやく 所欲害身者しょーよくがいしんしゃ 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 還著於本人 げんじゃくおーほんにん

訓読文


呪詛や諸の毒薬によって、身を害しようと欲せられる所の者も、彼の観音力を念じれば、還って本の人に著く。

現代語訳


誹謗中傷、世の中には悪い言葉を使う人もおり、そうした言葉が自分の身にふりかかるときもある。
それでも菩薩として生きることを忘れなければ、言葉を発した本人たちのもとへと悪言は還っていき、やがて過ちに気付くだろう。

或遇悪羅刹わくぐうあくらーせつ 毒龍諸鬼等どくりゅうしょきーとう 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 時悉不敢害じーしつぷーかんがい

訓読文


或いは悪しき羅刹、毒龍や諸の鬼等に遇おうとも、彼の観音力を念じれば、時に悉く敢えて害せず。

現代語訳


生きていればいろいろな人と出会う。もちろん心優しい人ばかりではない。
どのような時も菩薩として生きることを忘れなければ、あなたを害しようと思う人はいない。

若悪獣圍繞にゃくあくじゅいーにょう 利牙爪可怖りーげーそうかーふー 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 疾走無辺方しっそうむーへんぽう

訓読文


若し悪獣が囲繞し、利の牙や爪の恐るべきも、彼の観音力を念じれば、疾く無辺の方に走りさる。

現代語訳


自分を害するのは外側からだけではない。
自らの内側、自分自身の煩悩によって自分が苦しむということも往々にしてある。
そのような時も菩薩として生きることを忘れなければ、煩悩はどこかへと走り去っていってしまうだろう。

玩蛇及蝮蠍がんじゃぎゅうぶつかつ 気毒煙火燃けーどくえんかーねん 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 尋声自回去じんしょうじーえーこー

訓読文


蚖や蛇及び蝮と蝎の、気毒煙火が燃えようとも、彼の観音力を念じれば、声に尋いで自ずから回して去る。

現代語訳


身を滅ぼすもの、毒となるもの、そうしたものが近づくときもある。
けれども菩薩として生きることを忘れなければ、そのようなものは自ずと去っていく。

雲雷鼓掣電うんらいくーせいでん 降雹澍大雨ごうばくじゅだいうー 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 応時得消散おうじーとくしょうさん

訓読文


雲が雷を鼓し電を掣し、雹を降らせ大雨を澍いでも、彼の観音力を念じれば、時に応じて消散することを得る。

現代語訳


人生には雨の日もある。雷の日もある。雹が降るような日もある。
心が折れてしまいそうな日々であっても、ただ自分が菩薩として生きることを忘れなければ、苦悩はやがて消えていく。

衆生被困厄しゅじょうひーこんやく 無量苦逼身むーりょうくーひっしん 観音妙智力かんのんみょうちーりき 能救世間苦のうぐーせーけんくー

訓読文


衆生困厄を被りて、無量の苦身を逼らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救いたまう。 

現代語訳


生きていくには多くの困難がともなう。苦悩がある。思いどおりにならないことばかりである。
それでも勇気をもって菩薩として生きることさえ忘れなければ、その生き方は人々を苦悩から救い、自分をも救ってくれるだろう。

具足神通力ぐーそくじんつうりき 広修智方便こうしゅうちーほうべん 十方諸国土じっぽーしょこくどー 無刹不現身むーせつふーげんしん

訓読文


神通力を具足し、広く智と方便を修して、十方の諸の国土に、刹として身を現さずということなし。

現代語訳


菩薩として生きる人は、智慧によって正しい道を示し、その道へ人々を向かわせる優れた手法を用いる。
そうした菩薩のごとき人々が、この世界のあらゆる場所に存在する。
感謝の想いを抱いたなら、相手は菩薩だということである。

種種諸悪趣しゅじゅしょあくしゅ 地獄鬼畜生じーごくきーちくしょう 生老病死苦しょうろうびょうしーくー 以漸悉令滅いーぜんしつりょうめつ

訓読文


種種の諸の悪趣、地獄、鬼、畜生と、生老病死の苦も、以って漸く悉く滅す。

現代語訳


欲や執着といった煩悩によって、人はストレスをかかえ苦悩する。
老いや病や死といった苦悩も、老いたくない、健康でいたい、死にたくないという思いによって苦悩となる。
望んだようになってほしいという願い、その願いの根本にあるのは欲や執着であり、菩薩はその真理を説くことによって人々から苦を取り除く。

真観清浄観しんかんしょうじょうかん 広大智慧観こうだいちーえーかん 悲観及慈観ひーかんぎゅうじーかん 浄願常譫仰じょうがんじょうせんごう

訓読文

真観、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観。
常に願い、常に瞻仰せよ。

現代語訳


真理とは何か。
清浄な心とは何か。
広く世界の真実を見抜く智慧とは何か。
人の苦を取り除き、楽を与える力とは何か。
これらの総体である菩薩を常に忘れることなく念じ、菩薩の生き方を尊びなさい。

無垢清浄光むーくーしょうじょうこう 慧日破諸闇えーにちはーしょあん 能伏災風火のうぶくさいふーかー 普明照世間ふーみょうしょうせーけん

訓読文


無垢清浄の光あって、慧日は諸の闇を破り、能く災いの風火を伏して、普く明らかに世間を照らすなり。

現代語訳


菩薩のごとく浄らかに生きる人の姿は輝いており、その光は人々のなかにある闇を照らし、誤った道へ進むことを防ぎ、世界を善いものへと変えていく力を秘めている。

悲体戒雷震ひーたいかいらいしん 慈意妙大雲じーいーみょうだいうん 澍甘露法雨じゅーかんろーほううー 滅除煩悩燄めつじょうぼんのうえん

訓読文


悲の体たる戒は雷のごとく震え、慈の意は妙なる大雲のごとし。
甘露の法雨を澍らして、煩悩の燄を滅除す。

現代語訳


人々から苦を取り除き、楽を与える菩薩としての生き方。
その生き方はあたかも甘い仏法の雨を降らせることで、人々の煩悩の炎を静めていくかのようである。

諍訟経官処じょうしょうきょうかんしょ 怖畏軍陣中ふーいーぐんじんちゅう 念彼観音力ねんぴーかんのんりき 衆怨悉退散しゅうおんしったいさん

訓読文


諍訟して官処を経て、怖畏なる軍陣の中にも、彼の観音力を念じれば、衆の怨悉く退散す。

現代語訳


言い争いは絶えない。優劣という物差しから離れることは難しい。
それでも菩薩として生きることを忘れなければ、人々から醜い心は退いていく。

妙音観世音みょうおんかんぜーおん 梵音海潮音ぼんのんかいちょうおん 勝彼世間音しょうひーせーけんおん 是故須常念ぜーこーしゅーじょうねん

訓読文


妙なる音、世を観ずる音、梵の音、海潮の音、彼の世間の音に勝れり。
この故に須く常に念ずべし。

現代語訳


菩薩の声は優れたる音楽のようである。
その音楽によって人々の苦悩は取り除かれ、安らぎが与えられる。
だからこそ菩薩として生きることの尊さを忘れてはならない。

念念勿生疑ねんねんもっしょうぎー 観世音浄聖かんぜーおんじょうしょう 於苦悩死厄おーくーのうしーやく 能為作依怙のういーさーえーこー

訓読文

念念に疑いを生じること勿れ。
観世音の浄聖は、苦悩、死厄に於いて、能く為に依枯となる。

現代語訳


自分に具わる菩薩の力を疑ってはいけない。
自分にそのような力はないと考えてはいけない。
誰の身にも菩薩として生きるだけの力が宿っていることを忘れてはいけない。
菩薩として生きることで、人は苦悩や恐れから自由になることができるのだから。

具一切功徳ぐーいっさいくーどく 慈眼視衆生じーげんじーしゅじょう 福聚海無量ふくじゅかいむーりょう 是故応頂礼ぜーこーおうちょうらい

訓読文

一切の功徳を具し、慈眼をもって衆生を視るに、福聚まりて海のごとく無量なり。
是の故に応に頂礼すべし。

現代語訳


菩薩として生きる人には、あらゆる功徳が具わっている。
その功徳の眼差しで人々に接したなら、そこには海のように広く深い幸福が生まれる。
だから菩薩として生きる人に出会ったなら、その人を尊び敬いなさい。


これが菩薩として生きていく教えである」

爾時にーじー 持地菩薩じーじーぼーさー 即従座起そくじゅうざーきー 前白仏言ぜんびゃくぶつごん

訓読文


爾の時に持地菩薩は、即ち座より起ちて、前んで仏に白して言さく。

現代語訳


ブッダが話を終えると、無尽意菩薩は立ち上がって進み出て、ブッダに申し上げた。

世尊せーそん 若有衆生にゃくうーしゅじょう 聞是観世音菩薩品もんぜーかんぜーおんぼーさーほん 自在之業じーざいしーごう 普門示現ふーもんじーげん 神通力者じんつうりきしゃ 当知是人とうちーぜーにん 功徳不少くーどくふーしょう

訓読文


世尊、若し衆生あって是の観世音菩薩品の自在の業、普門示現の神通力を聞かん者は、当に知るべし、是の人の功徳少なからずと。

現代語訳


「ブッダよ、今あなたが説かれた菩薩としての素晴らしい生き方を、もし人々が耳にしたなら、その功徳は計り知れないものがあることでしょう」

仏説是普門品時ぶっせつぜーふーもんほんじー 衆中八万四千衆生しゅちゅうはちまんしーせんしゅじょう 皆発無等等かいほつむーとうどう 阿耨多羅三藐三菩提心あーのくたーらーさんみゃくさんぼーだいしん

訓読文


仏、是の普門品を説きたもう時、衆中の八万四千の衆生、皆無等等の阿耨多羅三藐三菩提の心を発せり。

現代語訳


その場に居合わせた人々は、ブッダの話を聴いて、これ以上ないほど尊い心を起こしたのだった。

観音経の唱え方


最後に、観音経の唱える際の見本となるものとして、参考となる動画を下に紹介します。
タイトルの唱え方に若干の違いはありますが、だいたいこのような感じです。