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【快川紹喜】 「なるほどねぇ」と唸る禅僧の逸話 - 心頭滅却すれば火も自ずから涼し -

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【快川紹喜】「なるほどねぇ」と唸る禅僧の逸話 - 心頭滅却すれば火も自ずから涼し -

心頭滅却すれば火も自ずから涼し
禅語であるとも言えるが、この言葉をどこかで耳にしたことのある方というのは、存外大勢いらっしゃるのではないか。
そしてごく自然に、熱い火が涼しいとはどういうことなのだろうと、そんなはずがあるわけないじゃないかと、疑問に思われはしなかっただろうか。
私は正直なところ、はなはだ疑問だった。
火が涼しいなんて嘘だろうと。
だが、この言葉がどういった状況で発せられたのかその真意はどこにあったのかを考えるようになってから、私はこの言葉にそれまでとはまったく違う印象を抱くようになった。
皆さんはどう思われるだろうか。
以下に事の顛末を綴りたい。


時は16世紀。戦国の世。
臨済宗の僧であり、妙心寺の住職も勤めた快川紹喜(かいせん・しょうき)という禅僧がいた。
快川は今の岐阜県南部にあたる美濃国の崇福寺という寺院に住していたが、国守の斉藤義龍(よしたつ)とのいざこざにより崇福寺を出ることとなった。
それを聞きつけたのが甲斐の武将、武田信玄。
信玄はすぐに使いを送り、快川を甲斐随一の名刹と誉れ高い恵林寺に招いた。
そして快川が恵林寺に住することとなると、信玄は快川に師事し、禅を学ぶだけでなく政治軍事の相談役としても頼るようになったという。


そんな快川に転機が訪れるのは1573年。
武田信玄の死去である。
信玄の死因については今でも謎が多くはっきりとしたことはわかっていないが、この年に信玄が死去したことによって、戦国時代の強国甲斐は次第に衰弱していった。
そして1582年、天目山の戦いによって最後の武田軍はことごとく討死、あるいは自刃し、滅びた。


武田軍を滅ぼした織田信長は、信玄同様に快川を敬慕していた。
そこで快川を自国に迎えようとしたのだが、快川は信玄との節義を通し、この懇請に頑として応じなかった。
信長は当然の如く憤慨した。
そしてさらに、油を注ぐような出来事が信長の耳に届くこととなる。
信長との戦に敗れた近江の佐々木義弼(よしすけ)が武田を頼って甲斐に身を寄せていたが、武田家の滅亡によって撤退を余儀なくされ、快川の厚意によって恵林寺にかくまわれていたことが信長の知るところとなったのだ。

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敬慕する快川であったとしても、自分の申し出を断り、自分と敵対していた佐々木をかくまっていたとあれば、もはや許すことはできない。
信長はなんとしても快川を討つように将兵に命じた。
厳命を受けた将兵らが恵林寺に押し寄せると、快川らは逃れる術もなく、山門楼上に集まった。
すると将兵らは信長の怒りを表すかのように山門の下に薪を積み上げ、一斉に火を放ったのである。
山門はまたたく間に燃え盛る炎に包まれた。


楼上には快川のほかに100余名の僧が集まっていた。
そして皆で最期の覚悟をし、袈裟をまとって坐した。
快川は僧らに語りかけた。
「我々は今、燃え盛る炎に囲まれている。この場にあって、そなたたちは仏法に適うどんな一語を発するか。それぞれ一句、ここに呈してみよ」
快川の言葉を受けて、僧らは一人ずつその境地を述べた。
そして最後に快川が自らの心を皆に呈した。
安禅は必ずしも山水をもちいず。心頭滅却すれば火も自ずから涼し


安らかな禅は、必ずしも安らかな場所を必要としない。
逃れたいという思いさえ心に生じることがなければ、火の中にあっても心は安らかである
私はこのように、快川の末期の一句を解釈している。


火が涼しいと感じるのではない。
火は熱い。
身を真っ黒に焦し焼き尽くすほどに熱い。
しかしそのような火であっても、焼くことのできないものが一つだけある。
心だ。
涼しいとは温度ではなく、心境を指す言葉なのだろう。
「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」とは、やせ我慢でも嘘でもなく、紛れもない快川の心のあらわれだったと、今となっては思えてならない。


苦しみは、心がそう感じることによって心に起こる。
いかなる苦しみも、それを感じているのはあくまでも心である。
それならば、心を定めることによって人は苦しみから離れることができるのではないか
それが禅の思想の根本である。
快川の言葉は、まさに禅に立脚した、禅そのものを体現した言葉に思えてならない。