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【一休宗純】「門松は冥土の旅の一里塚」- 禅僧の逸話 -

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【一休宗純】「門松は冥土の旅の一里塚」- 禅僧の逸話 -

年が明けた。正月だ。
めでたいめでたいと、正月気分まっただ中なのだと察するので、そんなお祝い気分に水を差すような禅僧の逸話を1つご紹介させていただきたい。


一休さんこと、一休宗純禅師が著わした『狂雲集(きょううんしゅう)』という詩集に掲載されている一句にまつわる逸話なのだが、正月を題材にした出来事なので今の時期にピッタリである。
その一句というのは、次のようなものだ。


門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもありめでたくもなし


なんという強烈な皮肉……!

「めでたいのう、めでたいのう。
あの世にまた一歩近づいたのだから、めでたいのう
正月に飾られるの門松は、まるで冥土へと向かう道に築かれた一里塚みたいなものじゃ」


このような意味の一句を詠みながら、一休禅師は年が明けたばかりの正月ムードの京の町を練り歩いたという。
しかも、手には竹竿を持ち、その竿の先に人間の髑髏(しゃれこうべ)を刺していたというのだから驚愕。
現代でこれをやったら、すぐさま通報されて逮捕されるに違いない。


一説によれば、家の前を髑髏を掲げた不気味な僧侶が歩いているという、この気味の悪い出来事が起きたせいで、京の人々は正月の三ヶ日の間は外に出ないようにするという風習が広まったとか。
もちろん、一休宗純という不審者と出会わないために。


しっかりと家の戸を閉める人々の姿が目に浮かぶようで、この逸話には本当に困惑する。


なぜにそのような奇行を……?

ただしこの逸話、一休禅師の心を鑑みれば、一概に拒絶する話ではないことも確かである。
誰もはっきりと自覚したいとは思っていないかもしれないが、正月を迎えることは、それだけ死が近づいたという一面を意味してもいるのは間違いでない。


死というものが大袈裟で実感が湧かないというのなら、「老い」に置き換えてみてもいい。
誕生日を迎えるということは、一つ老いたということ。
誕生日ケーキに差されたロウソクは、冥土へと向かう道の一里塚。
めでたいことなのに、めでたくもなし


女性に限った話ではないが、年をとることに抵抗を感じる人は多い。
新年を迎えた、あるいは誕生日を迎えたことをめでたいと思いながらも、また一つ年をとって老いてしまったのだなと、頭の片隅では寂寥を味わう。
幸と不幸が同封されたプレゼントを受け取るような、嬉しいような嬉しくないような複雑な心境
その意味で、一休禅師の句に共感できる方は、もしかしたら少なくないのかもしれない。


一休禅師の狙いは、おそらくそこにあったのではないだろうか。
つまり正月を迎えて、めでたいめでたいと浮かれ祝う京の人々に、この一句を詠んで聞かせることで人々を正気に戻そうとしたのではないかと。
目を覚ましておけよと。


新年を祝うということは、死の近づきを祝っているという意味でもあるんだぞ。
死はすぐそばにあるんだぞ。
ちゃんとそのことを理解した上で、正月を祝うんだぞ


そんなメッセージを込めた一句だったのではないか。

有り難し

私が暮らしている寺院にも、本堂の前に門松が飾られている。
この門松を見るたび、ああ、また新しい年を迎えることができたのだなと、感慨にふける。
尽力してくださった檀家さんの力作である。
ありがたい。
ついこの間、門松を見たばかりのような気もするが……もう1年経ったのか。


それはさておき、「ありがたい」とは嬉しいという感情とは幾分か性質の異なる感情である。
それはまさに、有ることが難しいという「有り難し」の心境そのもので、人生というものがあたりまえにあることではないのだという、生を慈しむ心境に近い


この「ありがたい」という心と、「冥土の旅の一里塚」の句を詠んだ一休禅師の心には、もしかしたら共通点があるのかもしれない。
生と死とは、まさに表裏の関係にある。
自分が今ここに「在る」ことは、考えれば考えるほど「有り難い」ことに思えてならない。


存在が存在することは、やはり不思議というよりほかに表現のしようのない奇跡なのだと思う
そんなことを思い直す正月が、またやってきた。
ああ、有り難し。