『修証義』第三章「受戒入位」を現代語訳するとこうなる
『修証義』第三章のテーマは「戒」。
戒に沿って生きることが、仏の道を歩くことそのものであるということが説かれているのが、この三章「受戒入位」。
では、戒とは何なのか。
これは狭義には僧侶となる際に師匠から授かる16条の戒「十六条戒」を指すが、必ずしも正式な授戒を経ていなくてもかまわない。
僧侶にならなければいけないわけではない。
大事なのは無論、内容の実践である。
つまりは、生きる上で道を踏み外すことのないよう、歩むべき指針となるものが戒である。
戒は他から定められる禁止の条文ではない。
罰則規定と思われることが多いが、そうではない。
戒とは自分で自分を律していこうとする、自律の徳目である。
正しく生きる指針のようなものだ。
正しく生きるとき、人は正しい人間になっている。
それが禅の基本。
だから仏の生き方を示したものである戒に沿って生きれば、それは仏として生きていることにほかならないと考える。
これが禅の思考。
仏とは特別な存在ではない。
水と氷が別物でないことと同じように、凡夫と仏は同じ人間を表から見たか裏から見たかの違いでしかない。
たまたまある人の悪い行いを見たとする。
そして「あの人は悪いことをしていたから悪い人だ」
と思ったとする。
しかし別の人は、たまたまその人が善い行いをしているのを見たとする。
そして「あの人は善いことをしていたから善い人だ」
と思ったとする。
どちらも真実を言っていながら、どちらも真実を言えてはいない。
どちらも行為の一面を指しただけの言葉に過ぎないからである。
人は一面の連続によって存在している。
だからどこかの一面のみを切り取ってその人の善悪を規定することができないのは明らかなこと。
人は善人でも悪人でもないのだ。
人は行為によって仏にも凡夫にもなる。
だから大切なのは「何をして生きていくか」の、この一点。
人は常に行為とともにしか何者にもなれない。
何もしなければ、何者でもない。
そしてもともと何者でもない。
禅で実践が重んじられるのは、実際の行動のなかにしか善も悪も存在しないからである。
そのような真実を、禅は坐禅によって体感していこうとする。
しかし、出家者であっても「ただ坐る」ことを目指す曹洞禅に沿う生き方は難しい。
ましてやこれを在家者に説くというのは、かなり無理があると思われる。
その点、戒を守るという教えは、在家者にとっても非常にわかりやすい。
一般の方に対して仏教を説くことを目的とした『修証義』の性格を考慮すれば、坐禅ではなく戒をメインにもってきた意図も理解できる。
やはり『修証義』は一般の在家の方々を対象とした経典なのだろう。
禅戒一如という禅語があるが、坐禅をすることと戒を守ることは、結局は同じことなのである。
どちらが上でどちらが下というのではない。
『修証義』で曹洞宗の根幹である坐禅が説かれず、その代わりに戒が説かれるのは、おそらくこのあたりの事情が加味されているのだろう。
それでは第三章「受戒入位」の内容をみていこう。
第十一節
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易え身を易えても三宝を供養し奉らんことを願うべし、西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。
現代語訳
仏の道を歩む者は「真実を悟った者」「真実についての教え」「真実に沿って生きる人々」の3つの宝を尊重しなさい。
生まれ変わり死に変わってもこの三宝(さんぼう)を尊重し続けるような強い志しを持っていなさい。
インドから中国へ、中国から日本へと伝わってきたブッダの教えの根本にあるのは、この3つの宝を敬う心である。
第十二節
若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、何に況や帰依し奉ることを得んや、徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多に帰依すること勿れ、彼は其の帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。
現代語訳
仏の教えに触れる縁に恵まれなければ、人は三宝という言葉を耳にすることはないだろう。
当然ながら、三宝を敬って生きることもない。
「本当に正しいことは何か」と問うことなくこの人生を生きれば、人は不安に駆られたとき安易に迷信に頼ったり、真実でないことを説く人々の言葉を信じたりしてしまうかもしれない。
それはとても危険なことだ。
なぜ自分は不安を感じるのか。
なぜ自分は苦悩するのか。
その根本を突き止めることをせずに、何かを信じて安心を得ようというのは、不安や苦悩の根本的な解決には結びつかない。
真実を悟った者・真実についえの教え・真実にそって生きる人々、これらを手本にして生きることが、苦の正体を知り苦から離れて生きる最善の方法である。
そのように生きて、心安らかに生きる悟りを開いてほしい。
第十三節
其の帰依三宝とは正に浄信を専らにして、或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。
現代語訳
三宝を敬うとは、浄く正しい真理を信念にして生きようとする態度のことである。
ブッダが生きておられようと亡くなっておられようと、一心に合掌して頭を下げて、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱え、その信念を声に出しなさい。
仏は正しい教えを説く師であるからこれを尊ぶ。
法は苦しみを和らげる薬のようであるからこれを尊ぶ。
僧は苦しみを分かち合い支え合う友であるからこれを尊ぶ。
それが三宝を尊ぶ理由である。
仏の教えを指針にして生きようとするならば、必ず仏法僧の三宝を尊ぶべきである。
どのような教えを行動の指針にするのでも、根底には真実を見極めようとする心がなければいけない。
そうした心があった上で、いろいろな指針を学びそれに沿って生きていくなら、それらも大切な人生の指針になりえるだろう。
第十四節
此の帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、世尊已に証明しまします、衆生当に信受すべし。
現代語訳
仏法僧の三宝を敬う心は、真理を求める心と真理が交わったとき、本物の信仰心となる。
衆生と仏とが別物でなくなったとき、衆生は仏の意味を知る。
いかに仏道から遠く離れた生き方をしていた者であっても、真理を理解したなら、必ず三宝を敬う心をおこすようになる。
ひとたび真実を理解する心が生じたなら、二度とその心が失われることはなく、やがては真理を悟り仏となるだろう。
三宝を敬うことを人生の指針とすることで、人は安らかに人生を生きることができるようになる。
ブッダはそれを身をもって証明された。
我々もその生き方を見習って生きていこう。
第十五節
次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酤酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。
現代語訳
仏法僧の三宝を敬う心をおこしたなら、次は三聚浄戒(さんじゅじょうかい)という誓願を立てなさい。
三聚浄戒とは次の3つの自戒である。
- 一切の悪事を行わない
- すすんで善行に努める
- 他者のために行動する
この誓願を立てたなら、次に十重禁戒という10種の実践徳目を守るようにしなさい。
- いたずらに生き物を殺さない
- 人のものを盗まない
- 淫欲を貪らない
- だましたり嘘をつかない
- 酒におぼれない
- 人の過ちを責め立てない
- 慢心をもったり人をけなしたりしない
- 人のためになるものを施すことを惜しまない
- 怒りで我を失ったりしない
- 仏法僧の三宝を謗らない
仏法僧という3つの宝、三宝を敬う心(三帰戒)、3つの誓願(三聚浄戒)、そして10種の戒(十重禁戒)。これをまとめて十六条戒という。
この十六条戒こそが、悟りを開いた者らが守り実践してきた生きる指針そのものである。
第十六節
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じうし已る、真に是れ諸仏の子なりと。
現代語訳
十六条戒を自らの血肉とし、それを指針にして生きていくならば、人生において何よりも大切な真理を悟ることができるだろう。
智慧ある者がその真理を求めないことはない。
ブッダはこう言った。
「人は戒を受けることで仏の道を歩むようになる。
悟りを開いた仏と同じ道を歩み、仏の子となる」
戒を指針に生きれば、それはもう仏の道を歩む仏にほかならないのだ。
戒とは仏の道であり、仏の道とは戒なのである。
第十七節
諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫 皆仏事を作すを以て、其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟りを顕わす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。
現代語訳
悟りを開いた者たちは、必ず戒に沿った生き方をしている。
守ろうと意識してもしなくても、行動が自ずと戒に沿ったものになっている。
何かに意識がとらわれて戒を破るようなことはない。
戒を受けて仏の道を歩む者もまた同じである。
仏の道を歩みながら世界を眺めたとき、土も草も木も石も、宇宙に存在するすべてが真理を説いているように感じられることがある。
我々は自然が説き示す幾多の真理に耳を傾け、不思議としか言いようのない自然の導きを受けて、悟りとは何であるかを知る。
自然は悟りを開かせようと作為しているわけではない。
何もしてはいない。
何もしていないというはたらきをしている。
そこに我々は真理を見る。
そうして、仏の道を歩む志をより一層固めていく。
この尊い心こそ、仏の道を求める心にほかならない。
↓『修証義』の続き(四章)はこちら↓
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