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「本を読むことも大切だ」という道元禅師の言葉を意外に感じてしまう

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道元禅師と読書

永平寺を開いた道元禅師は、ひたすらに坐禅を重視する禅者であった。
頭で考えるのではなく、身体や生活を正しく整えることによって自ずと心が整えられていく姿に仏(悟り)を見出す人物であった。
だから「行い」を重視し、そのもっとも代表的な姿として坐禅を説いた。


永平寺の修行生活とはまさにこのような思想が集約されたものであって、そこには思考というものが入り込む余地がほとんどない。入り込むことを是としない。「思量に非ず」の世界。
「なぜこのような修行をするのか」と考えるのではなく、考えることを一旦やめて「修行そのものに成りきれ」というニュアンスとでもいえば近いだろうか。
当初は困惑も大きかったが、まあ、そういうものかと受け入れれば、しだいに永平寺の生活にも馴染んでいくことになる。


先人が残した言葉をたどって仏道を学ぶというのもまったく間違っているわけではないが、やはり重要なのは実際の行い。それが道元禅師の基本的な立場である。
いわば座学よりも実践科目としての修行の在り方を説くわけであるが、しかし例外的に、仏道を志したばかりの初学者は、経典の言葉や先人が残した書物をよく読んで学ぶことも大切であるとの教えも残している。


これには「意外な言葉だなあ」との率直な感想を抱かずにはいられない。それくらい道元禅師は「行い」を重視する人物としてのイメージが定着しているのである。
しかも「本を読むことも大切」と言うその理由というのが、道元禅師自身の失敗からきているものだからなおのこと興味深い。
現在でこそ、本を読むのは大事なこととして至極普通に受け入れられているが、禅、特に道元禅師の流れである曹洞宗では珍しい言葉なのである。


そこで、こうした読書に関する言葉が述べられている『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき)の当該箇所を現代語訳してみたい。


ちなみに『正法眼蔵随聞記』は道元禅師自身が書き残した書物ではなく、道元禅師の言葉を間近で聴いていた弟子の孤雲懐奘(こうん・えじょう)が、道元禅師の話を書き留めておいた筆録書のような書物となっている。
ただ、弟子の視点によって取捨選択され書き残された道元禅師の語録であるため、随聞記の内容が道元禅師の考えのすべてなのではない。ここには注意が必要。
あくまでも書き手は弟子の懐奘禅師である。


しかし逆に言えば、当時の弟子たちにとって道元禅師のどのような言葉が重要と感じられていたのかを知ることができるので、そういった意味では好都合の書物といえるかもしれない。
今回取り上げるのは、そんな随聞記から抜粋した一節である。


『正法眼蔵随聞記』の一節(現代語訳)

ある日、道元禅師はこのような話をされた。


仏道を歩んでいこうとする者は、その初心の頃に、仏道を求める心の深浅に関わらず、経典や書物などに書かれた先人の教えをよく読んだほうがいい
そして、仏道がいかなるものかをよく学ぶべきである。


私(道元)は幼い頃、世の中の無常を観じて出家を志し、良き師を求めていろいろな地へ赴いた。
比叡山でも仏道を学んだが、その後さらなる修行を求めて建仁寺にたどりついた。
長きにわたる遍歴であったのだが、それでも正師と呼ぶべき人物にはめぐり会えず、また志を同じくする友にも出会えなかった。
そうしたものだから、私は正しい道を踏み違え、間違った考えを持ってしまった


というのも、遍歴のなかで出会い、私に教えを授けてくれた師僧らの言葉というのは、「勝れた先人と同じくらい立派になり、天下に名が轟くような人物になりなさい」といった趣旨の言葉だったのだ。
だから私は仏道の教理を学ぶにしても、名の通った人物に肩を並べることを目標として励んだのである。
「大師」と称される僧侶らと同じようになりたいと願って。


しかし、そうして勉学に励み書物を読んでいたとき、『高僧伝』や『続高僧伝』といった書物を手にする機会があり、そこに書かれている言葉を読んで私は戸惑わずにはいられなかった。
これらの書物で説かれる「勝れた僧」と、私が出会った師僧らが説いていた「勝れた僧」の人物像は、まったく異なっていたのである。
「名声を得るような人物になりなさい」などとは、どこにも書かれていなかった。
それどころか、私が抱いていた考えはまったく誤った良くない考えであるとして、そのほかの多くの書物でも批難されていたのである


私はそれから先人が残した書物をよく読み、道理について今一度よく考えてみて、ようやく大切なことに気付いた。
すなわち、たとえ自分の名が日本国中に知れ渡ったとしても、今の世のくだらない人々から認められたところで何の意味もないのだと。
どのように思われるかを気にするのであれば、昔の、本当に勝れていた僧侶らから見られてどうであるかを考えるのでなければ無意味でしかないのだと。


目指すべき人物もまた同じで、名ばかり有名で実のない人物を目標としてもむなしいだけである。
中国やインドで仏道修行に精進してきた本物の名僧を目標にしなくてはならない
そのような方々と肩を並べるほどにまでなろうと考えなくては目標として正しくないのである。
あるいは、神々や仏や菩薩といったものから見られてどうか、と考えるのであれば、これでもいいだろう。


書物を読み、勝れた僧とは何かと考え、こうした道理に気付いてからは、わが国の名ばかりの高僧など、ガレキのように無価値に等しいと思えてならなくなった。
そうした人物を目指していた自分の未熟な在りようも、当然、さっぱりと改めてしまったものだ。

よく読み、よく考える

以上が当該箇所の現代語訳である。最後のほうは、なかなかに厳しい言葉が続いている。
こうしたズバッと切り倒す言葉は、禅の世界ではよく見られるので特に驚くこともないのだが。


道元禅師は若かりし頃、名が通ること、つまりは名声を得ることが立派になることだと思っていたが、それは誤りであったと気が付いた。
そうではなくて、「本物」から見られて恥じることのない生き方をすることが大切なのだと。
そうした間違いを道元禅師は、本を読むという体験を通して学んだといっているのである。
だから右も左もわからないような初学者ほど、まずは進むべき道を誤らないために先人の本を読むべきだと。


本を読むことは重要である。
本に書かれていることが重要なのではなく、自分の考え以外の考えを知ることができるのが重要で、さらに言えば、そういったあらゆる言葉をヒントに、「本当に正しいことは何か」を考える材料になるから重要なのである。


だから間違っても、本に書かれていることを鵜呑みにすることが重要なのではない
それは、道元禅師が諸国を遍歴するなかで出会った師僧の言葉を咀嚼することなく呑み込んだのと同じであり、およそ「学ぶ」という姿勢ではない。それはただの盲信。


だからよく読み、そしてよく考える。
初学者にとっては進むスピードよりも方向性が重要なのだから、その方向が間違ったものにならないよう、いろいろな人の意見を参考によく考えるという作業が重要なのだと道元禅師は言いたいのではないか。
そうしてある程度の思考基盤が完成したら、今度は座学から離れて実践に身を投じる。
投じきって、実践そのものになる。
その実践の場が永平寺なのだろう。


まあ、道元禅師に言わせれば、「身を投じた場所に正しく導く力を持った人物がいれば、初学者がゴチャゴチャ考えなくても正しく歩むことができる」という意味の言葉も多く残しているので、そういった方法によって修行をするというのでもいいのだろうが。
どちらにしても、何事も正しく歩む「方向性」が重要で、正しく導いてくれる師がいなければ、先人の本を読むなどしてよく考えることも必要だということになるのだろう。


本を読もう、などという話は現代においては当たり前のような言葉であるが、禅僧、特に曹洞宗僧侶にとっては、道元禅師のちょっと意外な一面を垣間見るような内容なもので、ご紹介したくなってしまった。
もしかしたら、これを面白いと感じるのは私だけかもしれないが……。そうであれば、これは失敬。