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【大鑑慧能】六祖と称される禅の大成者の生涯 ~禅僧の逸話~

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【大鑑慧能】六祖と称される禅の大成者の生涯

禅の創始者は誰か」という問いは、簡単そうにみえて答えるのが相当に難しい。


たとえば禅を中国に伝えたのは達磨大師といわれており、この達磨大師こそ禅の創始者であると考える人もいるが、そもそも達磨大師は歴史上の人物として本当に実在したのかがすでにあやしい。「達磨」とは個人を指すのではなく、禅を中国へ伝えた僧侶の集団を指すのではないかという専門家もおり、残されている文献上の記述も伝説に近いのではないかとの指摘を受けている。


禅を仏教と区別しなければ、禅の創始者は仏教と同じくブッダであると言えないこともないだろう。通常、仏教と禅は異なるものだと考えられているが、たとえば禅の系統の一派である曹洞宗の開祖道元禅師は、自らが中国で学んだの教えを「正伝の仏法」(ブッダの説いた正しい仏教)とよび、禅を学んだとは言っていない。それどころか禅宗や曹洞宗といった言葉を使うことに否定的だった。


仏教そのものを伝えたとする道元禅師の意志に従えば、今日でいうところの禅(曹洞宗)は仏教と違わぬものであるととらえるべきなのだろう。しかし実際のところ、禅は仏教の一宗派として考えたほうが適切である面も強く、仏教と禅をイコールで結ぶことには疑問が残る。


ほかにも、たとえば禅を瞑想と考えれば、その起源はブッダの時代よりもさらに遡り、紀元前2500年~前1800年のインダス文明にまで遡ることも不可能ではない。インダス文明の都市遺跡モンヘンジョ・ダロからは、当時の人々が瞑想をしていたことを推測させる図象が出土されているからである。


しかしもちろん、いくら禅が瞑想を意味する「ジャーナ」という言葉の音訳であるからといって、「禅=瞑想」と単純に定義してしまうのは強引と言わざるをえない。少なくとも今日に伝わる宗派としての性格を帯びた禅の萌芽をインダス文明に求めるのは無理がある。禅はやはり、仏教がシルクロードを通ってインドから中国へ伝播した後に、中国の地で花開いたものであると考えるのが自然だろう。


禅における慧能の存在

こうした歴史的経緯のなかで、禅の成立に関して重要な関わりをしている人物がまだほかにいると禅宗では考えている。それが、禅の系譜における中国の第6番目にあたる祖、大鑑慧能(だいかん・えのう)禅師。1番目、つまり中国における初祖は達磨大師であり、慧能禅師は達磨大師から数えて6番目にあたる人物である。


慧能禅師が禅の創始者であると主張するにはやはり問題があるのだが、慧能禅師によって禅が大成され、今日的な世界規模での禅の隆盛に深く関係していると考えることに異論をはさむ者もまた少ないと思われる。おそらく慧能禅師という名前など聞いたことがないという方も少なくないだろうが、禅宗における慧能禅師の存在は、一般からの認知度の低さとは対照的に非常に高いものとなっている。


その理由は、慧能禅師のもとからすぐれた禅僧が多く輩出され、後に中国において形成される5つの宗(潙仰宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)と、臨済宗の2つの派(横龍派・楊岐派)、いわゆる五家七宗が、すべて慧能禅師の法系から誕生している点に集約される。つまり、中国において花開いたいくつもの禅宗のもとを辿っていくと、そのほとんどすべてが慧能禅師に辿り着き、今日における世界的な禅の広まりも、すべて慧能禅師の法系からの展開によるものとなっているのである。


こうした事実を踏まえると、禅の創始者ではないにしても、慧能禅師が禅の確立に関して非常に大きな影響を与えた人物であるということは間違いない。

慧能禅師の生涯

慧能禅師はわずか3歳で父親を亡くし、以後、母との2人暮らしをしていた。家は貧しく、幼少だった頃の慧能禅師はいつも薪を売ってはわずかな金銭を得て、どうにか生活をすることができていたという。そんな慧能禅師が仏教と出会った経緯については、以下のような逸話が残っている。


慧能禅師がいつものように街で薪を売っていると、道の向こうから1人の僧侶が歩いてきた。その僧侶とすれ違うときに、慧能禅師の耳に僧侶が唱えていたお経の一節が聞えてきた。


「……応無所住而生其心……」

(まさに住するところなくして、しかもその心を生ずべし)


瞬間、慧能禅師はこの言葉に、心に深く感じ入る気付きを得た。そしていてもたってもいられず、僧侶に話しかけたのだった。

「すみません。今あなたが唱えていたお経は、何というお経なのでしょうか?」

「えっ、『金剛経』(こんごうきょう)というお経ですが」

「そのお経を、どなたから教わったのですか?」

「黄梅県の東山に住む大満弘忍(だいまん・こうにん)禅師からですよ。この『金剛経』を学べば仏になれると教わったものでしてね」


『金剛経』を学べば仏になれる……なんとすばらしいことだ。慧能禅師はすぐにでも弘忍禅師のもとへ参じて『金剛経』について学びたいと思ったが、そういうわけにもいかない事情があった。湖北省にある東山は、慧能禅師が暮らす広東省の新州から歩いて数十日もかかる。それに、自分がいなくなり薪売りによって得ていた収入がなくなれば、一緒に暮らしていた母の生活がままならなくなる。弘忍禅師の教えは学びたいが、母のもとを離れることはできない


慧能禅師が浮かない表情をしていると、僧侶は「どうかしたのか」と訊ねてきた。そこで慧能禅師は自分の境遇を僧侶に話した。するとその僧侶は、その母親の生活費は自分が工面するから、あなたは弘忍禅師のところに行って教えを学んできなさいと言い、躊躇する慧能禅師の背中を押してやった。こうした僧侶の厚意によって、慧能禅師は仏教を学ぶために求法の旅に出たのだった


五祖弘忍との出会い

長い旅の末に、慧能禅師はようやく弘忍禅師のもとへ辿り着くことができた。そこで弘忍禅師は、遠路はるばるやってきた若き慧能禅師に対して、その意志を確かめるべく質問をした。

「あなたは何を求めてこの地へやってきたのかね?」

「はい、仏になるためにやってまいりました」

「ほお、仏になるとな。しかし、南の人間に仏になる資質があるだろうか


この当時、中国では南の地方は文明が進んでおらず、野蛮な地とみなす風潮があったため、南からやってきた慧能禅師に対してこう言ったのである。つまりが、慧能禅師の反応を確かめようとしたのだ。そこで慧能禅師はこう答えた。

人間の生まれには南北の別がありますが、仏に南北の差などないでしょう


物事を差別するのは人の頭であって、そういった観念や思い込みから離れることこそ仏であるという理をさらりと言ってのけた慧能禅師に、弘忍禅師はその力量を認めた。ただし、まだ出家していない慧能禅師を他の修行僧と同等に扱うことはできず、有髪のままで寺の用務をする役を与えて寺に住まわせることにした。そうして慧能禅師は毎日米を搗く仕事を任され、一日中米を搗いて弘忍禅師のもとで暮らすようになった。

神秀と慧能

そんな生活が8ヶ月ほど続いた頃、弘忍禅師がある御触れを修行僧たちに出した。自分のあとを嗣ぐ者を選定するために、各々の悟った境地を自分の言葉で表現してみよというのである。そして、そのなかで弘忍禅師の意を受け継ぐに相応しい言葉があれば、その者に法を嗣がせ、六祖としての位を与えようというのだった。


弘忍禅師のもとにはこのころ700名ともいわれる大勢の修行僧がいた。そしてそのなかには、常に他の修行僧の先頭となって修行に邁進してきた神秀(じんしゅう)という修行僧がいた。修行僧らは、弘忍禅師の法を嗣ぐのは神秀をおいて他にはいないだろうと思い、自分の見解を呈しようとする者はいなかった。するとやはり、数日後に神秀が自らの境地を偈頌にして紙に書き記し、寺の廊下の壁に貼りだした。


このとき神秀が書いた偈頌は、次のようなものであったと伝えられている。

(※ここでは『景徳伝灯録』に残されている偈頌を記載する。偈頌はいくつか似ていながらも言葉の違うものが存在する。)


身是菩提樹
心如明鏡台
時々勤払拭
莫遣有塵埃


【訓読】
(身はこれ菩提樹)
(心は明鏡のごとし)
(時々に勤めて払拭し)
(塵埃を有らしむることなかれ)


【現代語訳】
修行をする我が身は悟りの樹であり、
心は執着から離れて静まりかえっている。
この身と心を絶えず磨き続け、
塵や埃がつかないように修行を続けていく。


神秀の偈頌の意味は、およそ上記の訳のようなものである。弘忍禅師はこの偈頌を読んで、このように修行を続ければ確かに勝れた成果を得るだろうと、一応は褒めた。これを聞いた修行僧たちは、弘忍禅師が神秀の偈頌を褒めたといって、弘忍禅師の法を継ぐのは神秀で決まりだと思った。


修行僧らは次々に神秀の偈頌の前にやってきて、その言葉を読んでいった。そして廊下を歩きながら今しがた覚えたばかりの偈頌を唱えたりしていたのだが、たまたま1人の修行僧が慧能禅師のいる米搗き小屋の前を通りがかったとき、慧能禅師の耳にその偈頌が聞こえた

「すみません、あなたが唱えている偈頌はどういったものなのですか?」

「えっ、君は神秀さんの偈頌をまだ知らないのか? 弘忍禅師のあとを嗣ぐ人物を決めるための偈頌だよ」

修行僧は何も知らない慧能禅師に、これまでの経緯を教えてあげた。


すると慧能禅師は、自分も偈頌を貼り出したいと言い、しかし文字が書けないから代わりに書いてほしいと修行僧に頼みはじめた。変なことを言い出すヤツだと思いながらも、その修行僧は慧能禅師が言った言葉を紙に書いてあげた。そうして出来上がった偈頌を、慧能禅師は神秀の偈頌のすぐ横に張り出した。


菩提本非樹
明鏡亦非台
本来無一物
何仮払塵埃


【訓読】
(菩提もと樹にあらず)
(明鏡もまた台にあらず)
(本来無一物)
(なんぞ塵埃を払うを仮らん)


【現代語訳】
悟りを実体視することがどうしてできるのか。
心もまた悟りの土台なのではない。
あらゆるものは本来、何ものでもない。
それなのに一体、どこに付いた塵や埃を払うというのか。


六祖慧能の誕生

廊下に貼り出された2つの偈頌を見て、弘忍禅師は慧能こそ自分の法を嗣ぐのにふさわしい器であると見抜いた。しかしそんなことになれば、他の修行僧らが黙っていないことも容易に想像がついた。言い争いなどが起これば本末転倒である。弟子たちの行く末を危惧した弘忍禅師は、修行僧らの前では慧能禅師の偈頌を評価することはなかった。


しかしその夜、修行僧らが寝静まったころ、弘忍禅師は1人でそっと米搗き小屋に行き、慧能禅師に話しかけた。

「慧能や、米は白く搗けたか?」

弘忍禅師の何気ない問いかけに、慧能禅師はその真意を汲み取って返事をした。訊ねられたのは「悟ったか」であると。

「はい、搗けました」

何を教えたということではなくても、慧能にはきちんと仏法が伝わっている。そのことを確認した弘忍禅師は、自分が受け継いできたお袈裟を慧能禅師に付与し、自分の法を受け継ぐものはあなたであると伝えたのだった


しかし、修行僧のトップであり続けた神秀をさしおいて、まだ出家すらしていない米搗きの用人が弘忍禅師の法を嗣いだことが修行僧らに知れ渡ったら、どんな騒動がおきるかわからない。だから弘忍禅師はその晩のうちに慧能禅師を寺から連れ出すと、船を漕いで湖を渡って慧能禅師を対岸へと送りとどけ、その身を逃がした。そして、弘忍禅師から法を嗣いだことをすぐには公にせず、数年は山の中で隠れ住んで、ほとぼりが冷めるのを待つように慧能禅師に伝えた。


無益な争いが起きることだけは、なんとしても避けたかったのだろう。

風幡の問答

年月が経ち、弘忍禅師の言いつけを守った慧能禅師は、やがて山中から出て街へと入った。しばらく歩くと、ある寺に大勢の僧侶が集まっていた。何の集まりかと訊ねると、なんでも印宗という高名な僧侶がこれから『涅槃経』の講義をするところだという。慧能禅師が寺の境内に目をやると、講義があることを知らせる幡が地上高く立て掛けられ、はためいていた


すると、その幡の下で2人の僧侶が言い争いをしていることにふと気が付いた。様子をうかがっていると、2人の僧侶はこんなことを言っている。

「だから、この幡は風が動いているから揺れているんだ」

「いいや、幡が動いているんだ」

「違う、動いているのは風だ」

幡だ!

風だ!


どうやら2人は、幡が揺れているのは風によるものか、幡によるものかで言い争いをしているらしかった。周囲では他の僧侶が遠巻きに2人を見ている。2人は引くことをしらず、延々と持論を主張し合っていた。


その光景をしばらくは黙って見ていた慧能禅師であったが、やがて慧能禅師は2人のもとへ向かって歩き出した。そして2人のあいだに割って入り、こう告げた。

「風でも幡でもないでしょう。揺れ動いて収まらないのは、あなた方の心なのではないですか?

慧能禅師の言葉に非を悟った2人は、すぐに争いをやめた。


このような出来事があったことを耳にした印宗は、喧嘩の仲裁に入った僧侶に会ってみたいと思った。そして翌日、慧能禅師を探させて自室に招いた。そこで印宗は、目の前の人物が五祖弘忍の法を嗣いだ人物であることを知り、しかもまだ出家前であることを知って、出家得度を受けさせた。さらに翌月には具足戒(ぐそくかい)を授けて正式な僧侶とし、ようやく慧能禅師は名実ともに六祖となり、弘忍禅師から嗣いだ仏法を説き広めていくこととなった


慧能禅師のもとからは青原行思(せいげん・ぎょうし)や南岳懐譲(なんがく・えじょう)をはじめとした勝れた僧侶が輩出され、さらに青原や懐譲の弟子からも非常に多くの傑僧が誕生した。こうして中国の禅の流れは急速に発展し、五家七宗と称されるほどにまで隆盛していった。禅宗において慧能禅師が重要視される背景には、このような出来事があったのである。