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永平寺の七不思議

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永平寺の七不思議


曹洞宗の大本山であり、禅の修行道場として名高い永平寺には、いつ頃から語られ始めたのか定かでない「七不思議」が存在する。
禅寺に似つかわしくない、少々不気味で、しかし妙なリアリティもある永平寺の幽霊物語を、ひっそりとご紹介しよう。


①夜鳴杉(よなきすぎ)


永平寺に入る際に、一般の参拝者の方は通用門という入口から中に入る。
しかし、永平寺に修行にやってきた雲水とはそれとは別の、山門という永平寺の正式な入口から中に入ることになっている。


この山門へと続く石畳の両側には、五代杉(ごだいすぎ)と呼ばれる巨大な老杉が何本も立っており、鬱蒼としていて昼間でも少しひんやりとした空気が漂っている。
そしてこの五代杉が、風の吹く夜に鳴くのである。


キィィィィ……ヒィィィィ……
と。


なんでも、昔一人の雲水が門前の娘と恋仲に落ち、夜な夜な永平寺を抜け出しては逢い引きをしていたが、やがて抜け出すことができなくなった頃に、娘のお腹に子どもが宿っていることがわかったという。
そしてその赤ん坊は生まれて間もなく、老杉の根元に捨てられてしまったらしい。


夜に鳴く老杉は、赤ん坊の無念か、娘の悲痛な叫びか。
大梵鐘の近くにある祠は、その赤ん坊の霊を祀っていると伝えられている。

② 七間東司(しちげんとうす)


禅寺ではトイレのことを東司(とうす)と呼ぶ。
一間(いっけん)をメートルに換算すると約180cmなので、七間東司は長さ12m以上のトイレという意味になるが、ここでいう七間とは長さのことではなく、七つに区切られた柱の間を指している。


実際、永平寺の七間東司は、トイレの中央に細い廊下が伸び、その両脇に7つずつ、個室のトイレが設置されている。


永平寺では東司に入る際に細かな作法があり、たとえば雲水が着ている墨染めの衣などは必ず脱いでから東司に入らなければいけない。
しかし腹痛などで急を要する時などはそうした時間すらもどかしく感じられるもので、あるとき一人の雲水が褥子(べっす)という靴下のようなものを脱がずに東司に入ってしまったことがあったという。


褥子は必ず脱がなくてはならないものであるが、急いでいたのだろう。
しかしそれが古参の和尚にバレてしまい、激しく叱責されてしまった。
それを苦にして、その雲水は七間東司で自殺してしまったという。


以来、七間東司に幽霊が出るという噂が広まり、ついに七間東司は解体されることになった。
その後、七間東司は再建され一新されているが、真新しい七間東司の背景には、悲しい出来事があったのだった。

③ 山門柱の礎石


永平寺でもっとも古い建造物は山門である。
1749年の建立で、総欅造りの唐風の楼門。
間口は九間もあり、二階には五百羅漢が祀られている、おそろしいほどに巨大な永平寺の玄関である。


非常に重厚な造りであり、柱の太さも立派の一言であるが、その柱のなかの1つに、なぜか礎石がない
あれだけ重厚な山門を支える柱に礎石がないのはいかにも不思議である。


七不思議によれば、これは山門を建立した棟梁の娘を人柱として立たせたためと伝えられているのだ。
まさか、そんなことがあり得るだろうか。


日本各地には難工事を達成するためや、倒壊を防ぐことを神に祈る意味合いで人柱を立てた伝説がいくつも残っているが、まさか永平寺の山門でそのようなことがあったとは到底思えない。
しかし、確かに礎石がない柱が1本だけあるのは事実である。


甚だ不思議だ。

④ 首座単の生首


首座(しゅそ)とは修行僧の筆頭者という意味で、学校でいう首席と似たような意味である。
(たん)というのは禅寺における席を指しており、雲水はそれぞれ畳一畳の単の上で坐禅や食事や睡眠をする。
つまり首座単というのは、修行僧の筆頭者の席を意味している。


永平寺では年に2回、集中修行期間のようなものがあり、それぞれ1人ずつ首座を任命して、3ヶ月間境内の外に一歩も出ない時期過ごす。
しかし、ある時に任命された首座は、門前の娘と恋仲にあった。(前にもあったな、この話……)


3ヶ月もの間娘と会うことができないことに悩み苦しんだその首座は、あろうことか娘を殺害し、その娘の生首を持ち帰って、自分の単に取り付けられている戸棚のなかに入れておいたという。


しかし生首はやがて腐敗し、たちまちに異臭騒ぎとなり、首座の単の戸棚から生首が発見されて大騒ぎとなった。
なんとも猟奇的な言い伝えであるが、もし事実なら大騒ぎどころの話ではないだろう。


恐ろしいことこの上ない。

⑤ 中雀門の手蹟


拳骨和尚の異名を持つ物外不遷(もつがい・ふせん)という禅僧が、かつて永平寺で修行をしていた。
とんでもない怪力であった伝えられているが、その怪力っぷりを物語る逸話が、もう桁外れの内容なものだから逆に面白い。


その物外和尚があるとき、ささいなことがあって永平寺の中雀門(ちゅうじゃくもん)の柱を平手で叩いたことがあったという。
すると頑強な柱が手の形に窪み、傷蹟として残ってしまった。
今も中雀門に残る手の形に似た傷蹟は、そのときにできたものだという。


なお、物外和尚の怪力逸話を知りたい方は、下の記事をどうぞ。

⑥ 足場くれ


永平寺の伽藍の中心に建つ仏殿。
その仏殿の新築工事中だった明治30年、建築に携わっていた門前大工の1人が誤って高所から転落し、頭を強打して亡くなってしまった。


その事故があって以降、仏殿では時折「足場くれぇ~」という不思議な声が響くようになったという。
風の音によるものか、鳥の声がそう聞えたのか。
しかしそうした騒ぎがあったこともあり、亡くなった大工の供養の意味も込めて、仏殿の鴨居には一箇所だけ足場が取り付けられることとなった


仏殿の中に入り上を見上げると、一箇所だけ不思議なところに足場が設置されているのを見つけることができるが、この足場にはそんな逸話が残っている。
なお、この出来事に関しては資料が残っており、おそらく事実であることがわかっている。

⑦ 二祖国師の点検


永平寺の朝は早く、夏場は遅くても3時半には起床している。
それだけに夜寝るのも早く、どんなに遅くても夜10時半には床についていなければいけない。
そして、修行僧が寝静まったころにひっそりと行われるのが、点検である。


点検とは文字どおり永平寺に異変がないかを見回ることで、いわゆる夜回りを意味している。
提灯を持って廊下や伽藍などを見回り、特に火の元などを確認するのだ。


そのような点検は一晩に二度行われるのが常であるが、この点検には決して出歩いてはいけない時間帯が存在する
それが、子の刻。


それというのも、永平寺を開いた道元禅師の次に住職された孤雲懐奘(こうん・えじょう)禅師は、道元禅師が亡くなってからも在世のころと同じように道元禅師の供養を続けられた方だった。
そしてこの懐奘禅師は毎晩、子の刻になると道元禅師が眠る霊廟である承陽殿(じょうようでん)に赴き、点検・見回りをされたという。


この点検は懐奘禅師の大切な務めであり、子の刻に永平寺を見回ると懐奘禅師の点検とはち合わせてしまうことから、今でも子の刻に他の者が点検をすることは禁じられているのだ。
懐奘禅師は永平寺の2世であることから二祖国師(にそこくし)とよばれており、そのためこの話は「二祖国師の点検」とよばれている。


また、道元禅師の霊廟である承陽殿の入口は、夜でも必ず少しだけ開けられている。
理由はもちろん、子の刻に点検にやってくる二祖国師が承陽殿の中に入ることができるようにするためである。

おわりに


以上が永平寺に伝わる七不思議である。
事実かどうか疑わしいものが多いが(むしろ作り話であってほしいが)、永平寺にはこのような不思議な伝承が残っている。
仏殿の「足場くれ」の話は事実であると考えられており、実際に鴨居に取り付けられている足場も見ることができる。


門前の娘と恋仲になるという話が2度も出てくるが、深山幽谷に建立された禅寺、永平寺であっても、色恋沙汰と無縁ではいられなかったのか。
私が永平寺で修行していた頃は、娘さんと仲良くなるどころか、門前に出られたことなど1度もなかったのに……。


昔はもうちょっと自由に行き来できる状態にあったのだろうか。
それとも単に隙をみつけて抜け出したということなのか。


よくはわからないが、わからないからこそ七不思議ということにしておこう。