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永平寺での修行中にやらかした最大の失敗 ~これがケチラシだ~

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永平寺での修行中にやらかした最大の失敗

永平寺では、ミス(失敗)のことを「ケチラシ」と呼ぶ。
なんとなく「蹴散らし」の意味なのだろうと思っていたら、ある人が「気散らし」の意であると教えてくれた。


なるほど、気が散っているからミスをする。
だからケチラシか。
納得である。


思い込んでいた「蹴散らし」の言葉には2つの意味があり、1つは敵をあっさりやっつけること
「雑魚を蹴散らして進軍する」というような用法である。


もう1つの意味は、かたまっているものを散乱させることで、「ごみ箱を誤って蹴散らしてしまった」というような用法。
永平寺で使用されているケチラシの意味はこのうちの後者なのだろうと思っていたが、間違いだった。


ちなみに、「ケチラシ」と言ったときは名詞で、動詞になると「ケチラす」(ミスする)となる。
さらにこれを略して「チラす」と言い、「今チラしたな」(あの僧侶、今ミスしたな)というように使う。


雑巾を出すべき所に出していなかったとか、どんな些細なことでも間違えたらすべてケチラシ。
ケチラシてばかりいると「チラし和尚」などという意味不明な呼称でからかわれることもある。
なんだよ、チラし和尚って。ちらし寿司でも食べたくなったか? この野郎。
不名誉すぎる称号だろ。


痛い反省会

永平寺は一日の最後に反省会を行う。
そしてこの反省会は、実質的にケチラシ発表会でもある
反省会のなかで自分のケチラシを報告し、次に同じ間違いをする者がいないように情報を共有するのだ。


ケチラシの報告は少ないほどよいのが当然なのだが、それは反省会が正座で行われることと無関係でない。
時には1時間以上も反省会が続くこともあり、足の痛みはケチラシの数に比例して増大してしまうのである。


このケチラシ発表会にはルールがあって、ケチラシた事柄はあらかじめ紙に書いて反省会の前に提出することになっている
この時、ケチラシ内容を書く紙は通称「ケチ紙」と呼ばれている。
サイズはA6。
名前の由来はもちろん、「ケチ」ラシを書く「」だ。


ミスプリントなどを断裁して裏面を有効活用しているケチ紙に、今日1日のケチラシを書き留め、反省会の前に提出する。
ケチラシが重なれば、紙は2枚、3枚と増えもする。


ケチ紙0で反省会なしで正座免除が新米雲水の願いであり、そのために前任者のケチラシを確認して同じ轍を踏まないように気をつけているのだが、これがなかなかどうして0にならない。
誰かが何かをケチラシてしまうのである


その理由は、たとえばケチラシとは失敗だけでなく、注意も含まれるという点が大きい。
古参の雲水から何か注意を受けると、それは必ずケチ紙に書いて報告しなければいけないのである


たとえば「おい、廊下を走るな」と言われたら、これでケチラシ 1 確定。
反省会での発表も確定。
ケチ紙に「〇〇和尚さんから廊下を走るなと注意をいただきました。失礼いたしました」と正直に書かなくてはいけない。


だからケチラシ0というのは相当ハードルが高い。

本気のケチラシ

「チラす」と略して言うときは、どちらかというと軽いニュアンスで、はっきりとしたミスである場合は正式に「ケチラシ」に分類される。
そして、シャレにならないミスをしたときには、特別に「大ケチラシ」と大袈裟に呼ばれることになる。
ただし大ケチラシはそうそう頻繁に起こるものではない。

  • チラし   → 軽微罪
  • ケチラシ  → 罪
  • 大ケチラシ → 重罪


上記のようなニュアンスとなるだろうか。
まあ、これはあくまでも私個人のイメージにすぎないが……。


私は修行中に何度もケチラシをしてきたため、ケチ紙にも反省会にも大変お世話になっている。
正座の時間をいたずらに長引かせてしまい、大変申し訳なかった。


しかしそんな私の修行生活のなかでも1つ、他のケチラシとは段違いにヤバい「キング・オブ・ケチラシ」をしたことが1度あった。
それはもう、「大ケチラシ」にすら分類できないような大失敗だった。
あの記憶は忘れようにも忘れられない。


冷や汗とともに通常の汗も存分に流れた、私の永平寺史上最大のケチラシは、「大梵鐘」(おおぼんしょう)にまつわる失敗だ。


大梵鐘事件

そのとき、私は浴室にいた。
つまり風呂に入っていた
永平寺の修行生活のなかでゆっくりすることのできる時間はほとんどなく、風呂はそのなかでもっともリラックスできる時間の1つ。
私は肩までどっぷりと湯船に浸かり、束の間の休息を享受していた。


すると入口のドアを開け、1人の雲水が浴室の中へ入ってきた。
浴槽は10人ぐらいなら余裕で入ることのできる大きさをしているので、雲水が密集することは多い。
私はチラっと彼の顔を見て誰であるかを確認し、そしてまた休息へと戻った。


彼は体を洗った。
そして全身を石鹸の泡で洗い終わると、浴槽へと入ってきた。
そして湯船に浸かり、私の顔を見るなり驚きの表情で声を荒げた。
隆定さんじゃないですかっ!
(※永平寺では浴室で私語をすることは禁じられているが、この時は緊急事態だったのでお許し願いたい。)


いやいや、毎日顔を合わせている間柄で、その驚き方はないでしょう。
っていうか、さっきまで一緒だったでしょうが。
その反応は、少なくとも3年以上は会っていない友と駅かなんかで偶然出会ったときの反応じゃないか。


私は困惑し、「うん」とだけ返事をした。
ええ隆定ですけど、何か? という意を含めて。


「隆定さん、今日は鐘点(しょうてん)でしょう!?」
彼が引きつったような顔で訊いてきたので、私は違和感を覚えながら答えた。
「そうだよ」


鐘点とは、毎日ローテーションしていく役割の1つで、主に大梵鐘を撞く役の名前である。
この鐘点の役に当たった者は、その日の朝・昼・夕・晩に大梵鐘を撞かなくてはいけない。
それ以外にも仕事はあるのだが、メインの仕事はやはり大梵鐘である。


「隆定さん……昏鐘(こんしょう)……」
彼が恐る恐る私に告げた。
昏鐘とは夕方に撞く大梵鐘のことである。


「昏鐘? わかってるよ。風呂から出たら撞くって」
そのために今早めに風呂に入っているんじゃん、と私は言いたかった。
永平寺の風呂の時間は日によって異なるが、主に昼~夕方か、もしくは夜の2つに分かれる。
このときは夕方の時間に入っていた。


「いや、今日の晩課、高祖大師月忌献湯(←法要の名前)だよ……」
彼が思いもよらないことを口走った。


「……え?」
私は一瞬呼吸を忘れた。


「昏鐘の時間、今日30分早いよ
彼は決定的なセリフを私に伝えてくれた。


「……え゛? 今、なんですと?


晩課というのは夕方に勤める供養(読経)のことで、その日は永平寺を開いた道元禅師の月命日の前日だから、通常の晩課ではないと彼は言っているのである。
そして重要なのは、この法要はいつもより30分早くはじまり、それに伴い、昏鐘の打ち始めの時間もいつもより30分早まることだった


私は若干の余裕をみて行動していたのだが、予定はいつもより30分早く動いていた。
つまり、現時点ですでに大梵鐘を撞く時間は10分ほど過ぎていたのだ
「うそ……」


私は湯船のなかにいながら、一瞬にして冷や汗をかいた。
いや、それが冷や汗なのかノーマル汗なのか、そんなことはどうでもよかった。
そして次の瞬間、海から氷山に飛び上がるペンギンのように、私は湯船から飛び出した


大梵鐘は、永平寺にある数多くの鳴らし物のなかでも別格の存在としてある。
口径1.5メートル。
高さ3メートル。
重さ5トン。
破格の巨鐘だ。


一度鐘を撞くと、ゴーンという重低音が近隣の山々に響く。
鐘の真下にいると、空気が振動しているのが肌にビシビシ伝わってくる
グワングワンという残響が迫ってくる。


大梵鐘を撞くときは「一撞一拝」といって、一撞きするたびに頭を地(床)につけて恭しくお拝をする。
それだけ尊ぶべき重要な鐘ということである。


そしてこの大梵鐘は、撞くべき時間に1秒の狂いもなく撞かなくてはいけない
たった1秒ずれただけで注意を受けることもあるのだ。
つまり、1秒のズレさえもケチラシに成り得るのである。


その鐘を、なんと私は完全に撞き忘れてしまっていた……!!
これはもう、ほとんど事件であった。
大ケチラシのなかでも最上級、もはや大ケチラシestに該当するケチラシであった。


私は脱衣所で体をマッハで拭いた。
いや、それは拭いたのではなく、拭くような動作をしただけで実際にはびしょ濡れのままだったのだが、そのまま服を着た


しかし体が濡れているからシャツがなかなか着れない。
背中の上の部分にピタッとシャツがくっついて丸まり、必死に引っ張るのだが全然おりてこない。
急がば回れという諺があるが、本気で急いでいる時にはあらゆる時間を削りたくなることがよくわかった。
回る考えなど微塵も浮かばない。


私はシャツを引きちぎってもかまわないという意志と力で、背中の上部でロールケーキのようにクルクルと丸まっているシャツを強引に引きずり下ろし、なんとかシャツを着た。
そして間髪いれずに襦袢(じゅばん)を着て、その上に着物を着て、腰紐を締め、帯を巻いた。


ああ。
かつてこれほどまでに着物を着る時間をもどかしく感じたことがあっただろうか。


外に出られる格好になるまでに、おそらく3分はかかっただろう。
すでに10分ほど撞き遅れている状態で、さらに3分のロスは痛い。
昏鐘が撞き終わる時間というのは決まっているから、どう頑張っても撞ける時間は通常の半分の15分以下になると思われた。


どうすべきか。
私は量子コンピュータの如く高速で正答を導きだそうと試みた。


15分のあいだに、撞くペースを倍に上げて定数である18回大梵鐘を撞くか。
それとも、撞くペースを通常どおりにキープし、回数を半分以下に減らすか。
どちらも完全にあり得ない選択なのだが、すでにあり得てしまっているだけに悩ましい。


私は必ずこのどちらかを選択することになる
なんという選択を迫られているのだ。
どっちだ。
どっちがより被害が少ない……。
うおおぉぉぉ。量子コンピュータよ!


私は考えながら走った。
走ってはいけない回廊を全速力で激疾走した
風になった。


しかしご本尊の釈迦牟尼仏が祀られている仏殿の前を通るときは、必ず一旦停止して正面を向いて合掌して頭を下げてから通らなければいけない。
だから私はF1のマシンがタイヤ交換をするときに急激にスピードを緩めるように、全力疾走からの全力ストップを試み、かつ、猛スピードで頭を下げ、すぐさま頭を上げると同時にアクセル全開で再び走り出した。


回廊を走ると視界の左に目的地である鐘楼堂が見えた。
撞きたい。
念力か法力で撞木(しゅもく)を動かし、遠隔操作でまず1つでいいから撞きたい
ゴーンという音を響かせたい。
永平寺中に、大梵鐘が健在であることを知らせたい。


しかし、このまま鐘楼堂に向かうことはできない。
大梵鐘を撞く際には、必ずお袈裟を着ていなければいけないのだ。
風呂上がりの私はお袈裟を着ていない。
この禁を破っては、もはや僧侶として誤りである。


すぐそこに目的の場所があるのに、たどり着けないという、なんというもどかしさだ……くっ!!


私は大梵鐘の横を断腸の思いで通り過ぎ、右へと方向転換し、階段を駆け上がった。
着物と階段は相性が悪い。
注意していないと着物の裾を踏んでしまうことがあるからだ。


1段ずつあがるのに、通常でも約3%の確立で裾(すそ)を踏む
それが1段飛ばしになると、確立は15%に跳ね上がる。


そこで私は着物を手でたくしあげ、「高速1段上がり」でチョババババババッと階段を小刻みに駆け上がった。
風呂から出たばかりの火照った体から汗が噴き出た。


この階段を上がって左に曲がればお袈裟を置いてある衆寮(しゅりょう)がある。
そこでお袈裟を着て、今きたルートを戻り、鐘楼堂に着き、大梵鐘を撞く。


この計画で何か問題があるだろうか。
改善点はないか。
私はこれ以上少しのロスも生じさせないよう、頭のなかで可能なかぎりの時間短縮を試みた。
しかし、道は最短ルートで、速度は自分の脚力次第という条件下では、工夫の余地はほぼないように思われた。


「どうしたの?」
衆寮に入るなり猛スピードでお袈裟を左肩に掛ける私に、坐禅を組みながら本を読んでいる雲水が声をかけてきた。
私はこの状況を説明するだけの心の余裕をほぼすべて失っており、言葉数さえも短縮させた。
やばいの


とりあえずそう言うと、手を休めることなくお袈裟を着た
「何が?」
「大梵鐘が……そんじゃあ!
電波式の置き時計を手に取り、衆寮を飛び出た。


私は確実にこれまでの人生で一番早くお袈裟を身につけた。
この速度でお袈裟を着た人物は、おそらく長い永平寺の歴史のなかでもそうはいまい。
オリンピックにこの競技があれば、間違いなくメダルを獲得できたことだろう。


つい先ほど上がってきた階段を、今度は駆け下りる。
ダダダダダダッ。
下りるほうがはるかに簡単だ。


持ち出した時計を見た。
残り時間はあと15分を切っている。
どう頑張ったところで18回撞くのは不可能だ。


それに、大梵鐘の連打は、寺院に大異変が起きたことを知らせる合図でもある。
たとえば火事など、とてつもない出来事が起きたとき、大梵鐘が連打されるのである。


あまりにも間隔をせばめて大梵鐘を撞いた際、聞き方によっては連打に聞えなくもない気がした。
それはケチラシの質を最上級の更に上、限界突破級にまで上げることになり、もはや伝説となる可能性があった。


間隔を狭めるのはダメだ。
あまりにもリスクが高すぎる。
やはり、回数を減らすしかない。
私は腹を括った。

よし……数を減らそう


鐘楼堂は回廊の外にある。
そのため回廊の戸を開けて外用のスリッパを履いて向かう必要がある。
このスリッパがまたスピードの出ない履き物で、私はもうスリッパを履かずに飛び出したい気持ちを抑えるのに必死だった。


鐘楼堂が目前に近づいてきた。
ようやくだ。
ようやく大梵鐘が撞ける……!
うおおおぉぉぉ!!


私はついに鐘楼堂に辿り着いた。
勝った。
すでに完敗しているのだが、まずは1勝した気分だった。
しかし気を緩めることなく、すぐさま一撞き目を打ち込む


ゴ~~~~~ン


ああ……この大梵鐘の音をどれだけ待ちわびていたか。
響き渡る鐘の音が、道元禅師の月忌を知らせている。
私は一拝し、顔を上げて、袂(たもと)から時計を取り出した。
残り時間は想像通り約10分。


どちらかというと通常の日の大梵鐘の打出し時刻に近いが、今日の晩課は特別に30分早いぞ。
私はしばらく間をおいてから、また大梵鐘を撞いた。


しばらく経ち、通常の半分ほども撞けずに、私は昏鐘を撞き終えた。
身心ともに疲れ、憔悴していた
とぼとぼと回廊を歩き衆寮へと戻った。


廊下を歩きながら、私は思った。
さて、今日のケチ紙に何と書こうか


「大梵鐘を撞くのを忘れて、風呂に入っていました。失礼いたしました」


うん? ……これって、ほとんどふざけていると思われるのではないか?
それに、大梵鐘のことははっきりと覚えていたのだ。
忘れていたのは、晩課が高祖大師月忌献湯であったことのほう。
まあ、どっちも同じようなものなのだが。


これまでに大梵鐘を撞き忘れたという話は聞いたことがない。
すると、私が記念すべき第一号となってしまうのだろうか。


……しかしながら、考えようによってはすべてがミスであるとも言えないのではないか。
たとえば今後私と同じように大梵鐘の時間を間違え、途中から急いで撞き始める者が現れたとき、きっと「ペースか回数か」問題に悩むことだろう。
そこで私の前例が参考となれば、これはこれで意味があるのではあるまいか。


つまり、維持すべきはペースであると。
「連打はマズいぞ。ただのケチラシでなく、伝説になるぞ!
この教訓を後世に残すことができれば、私のケチラシにも意味がある。
そうだ、このケチラシには意味があったのだ!
ふははははっ!!


私は可能な限りのプラス思考を試み、外面での平静を装って衆寮に戻ったが、数時間後にやってくる夜の反省会を想像すると、恥ずかしさと申し訳なさで胃が痛かった。