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【禅語】 大道長安に透る - すべての道が都に通じている -

大道長安に透る

【禅語】大道長安に透る(だいどうちょうあんにとおる)

」という言葉には、どこか深みを感じさせる響きがある。
人が歩く道。歩いてきた道。歩くべき道。
きっと道とは人生の象徴なのだと思う。


どこまで伸びているのかわからなくて、他のいろんな道と交差していて、多くの人が行き交う。
歩けば疲れるので休みが必要で、でも休んだあとにはまた歩きたくなる。
そんなところも、道と人生はよく似ている。


今回ご紹介する禅語は、そんな「道」にちなんだ言葉。
その名も「大道長安に透る」である。


問答から生まれた「大道長安に透る」

中国は唐の時代に趙州(じょうしゅう)という僧がいた。
この趙州のもとへ、ある日1人の修行僧がやってきて問答をしかけた。


「道とはいかなるものか?」


ここで修行僧が訊ねた「道」とは、仏道のことである。
仏道というとどうしても堅苦しく聞えてしまうが、つまりは「仏道を歩むとはどういうことなのか」と趙州和尚に訊いたということだ。


もちろん趙州は、その修行僧が何を聞きたがっているのかわかっていた。
道という言葉が何を指しているのかも、当然理解していた。
しかし、趙州はあえてこんなふうに返事をしたのだった。


「道? ああ、道か。道ならほれ、そこの垣根の向こうにあるじゃろうて」


垣根の向こう側にある道とは、つまりがただの道路である。
お寺の前の道路。
趙州は修行僧の問いに対して、ひらりと身をかわすような答え方をしたのだった。


「いや、趙州和尚、私が訊いているのはそのような通路や道路のことではなくて、大道(悟りへの道)について訊いているのです!
修行僧が詰め寄ると、趙州は、


「大道? ああ、大きい道か。
大きい道のことが知りたかったのか。
大きい道ならほれ、その垣根の向こうにある道路を少し歩いていくと、やがて大きい道にでるじゃろう。
長安(唐代の首都)に通じるほどの大きな道じゃから、あれが大道じゃ」


またしてもはぐらかすような答えを返した。
そしてこれが禅語「大道長安に透る」が生まれた際のエピソードでもある。

仏道とはいかなるものか

「道」をめぐるこの問答は、普通に読むと、趙州和尚が訪ねてきた修行僧に肩すかしを食らわせるような内容に読める。
が、趙州和尚の意図はおそらくそうではない。


趙州和尚のもとを訪ねてきた修行僧は、禅という生き方と普段の生活とが別々のものだと思っていた。
仏道という道を特別な道だと思っていた。
だから、どこかに禅の修行ができる特別な道があると想定して、趙州に問うた。


趙州が「道なら垣根の向こう側にあるぞ」と答えたのは、禅の修行をする場所は特別なところへ行かなくても、どこにおいてもできるという意味なのだろう。
道路ならどこにでもある。家のすぐ前にある。仏道とは、それくらい目の前にあるものなのだと。
きっと修行僧の思い込みを破ってやりたかったのだ。


日常生活が禅そのものであるとは、禅の常套句の1つ。
禅は毎日の生活の足元にこそある
日々の行いを丁寧にすること、そうした生き方が禅であり修行である。


それをなおざりにして、どこか別の場所に禅を求めるのは、目の前にある大切なものを見ないで遠くばかりを見ているのと同じこと。。
そういった姿勢を、禅は厳しく戒める。


毎日普通に歩いている道、それがそのまま禅の道。
いや、そこ以外に禅の道は存在しない。
禅という特別な道があるわけではないのだ。


ただの道を禅の道にするも、ただの道のままにしてしまうのも、道を歩む自分の心次第。
道を歩く自分の心によって、ただの道が禅の道に変わるのである


しかしながら修行僧はそのような趙州の意図を汲むことができず、
「そんな普通の道を探しているのではなく、大道という素晴らしい禅の道を探しているんです」
と問いを重ねた。


そこで趙州は丁寧に、「大道ならちょっと行ったところにあるぞ」「長安に通じるほどの大道だぞ」と答えるのだが、これも修行僧には伝わらない。
互いに歯がゆい思いであったのかもしれない。


どこにでもある仏道

私の寺の前にもアスファルトの道がある。
細い村道であるが、2、3分も走れば国道に出る。
北へ進めば踊りで有名な郡上市へ着き、南へ行けば刃物で有名な関市に着く。


そしてその道をさらに進めば、日本中のいたるところまで行き着くことができる。
私が暮らしている美濃の地における大道は、趙州の言葉を真似ればこの国道156号線になるだろう。
どのような細い道も、必ず大道となり、首都まで続いている。


長安というのは当時の中国の首都であるが、ここでは要するに「悟りの象徴」として用いられている。
悟りに至る道は、今あなたが立っている足元にある道
その道がやがて大道となって悟りまで通じているのだと、趙州は答えたのであった。


「禅」とか「修行」という言葉には、どうしても「特別なこと」というニュアンスがついてまわる。
禅という特別な生き方があるとか、修行という特別な行いがあるとか。そんなふうに思われがちである。


しかし、禅においてそのような「特別なこと」は存在しない。
普段の生活をなおざりにせず、大切に生きる。
自分の心を自分で整え続ける。
そういった姿勢が禅であって、大切なものほど目の前にある。
間違っても、修行寺で暮らしている間だけが修行なのではない


国道156号線を行き交う多くの人々。
通勤する人、買い物に行く人、運搬している人、遊びに行く人。
そのすべての人の足もとに、禅という道は延びている。
それが禅の道となるかどうかは、心次第というだけで


道はすぐそこにある。
あまりに近すぎて見落としがちだが、人はもうすでにその道の上に立っている。


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