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正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑧

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑧

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の8回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
www.zen-essay.com


今回は潙山霊祐禅師の「一切衆生無仏性」という言葉がテーマとしてとりあげられている。
「有仏性」と「無仏性」。


ごく自然に考えれば、有と無とでは正反対のことを言っているように思えるが、しかし道元禅師はそうではないと釘を差す。
「無仏性」と言うときの「無」とは、「無い」という意味ではないと。
それでは一体「無仏性」の「無」とは何なのか……。


40節

大潙山大円禅師、あるとき衆にしめしていはく、一切衆生無仏性。
これをきく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釈尊説道は一切衆生悉有仏性なり、大潙の説道は一切衆生無仏性なり。有無の言理、はるかにことなるべし、道得の当不、うたがひぬべし。しかあれども、一切衆生無仏性のみ仏道に長なり。塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人舁なるべし。

現代語訳

潙山霊祐禅師は、あるとき弟子たちに次の言葉を伝えた。
一切衆生無仏性


この言葉を聞いた者たちのなかには、潙山禅師の意図を理解し「無仏性」の語を賞賛することのできる優れた資質の持ち主もいたが、その逆の者もいた。
すなわち、無仏性という言葉を「仏性がない」という意味に理解し、そんなわけがないと思い、一切衆生無仏性という言葉に疑いを持つ者もいた。


釈尊が説いたのは「一切衆生悉有仏性」であり、潙山禅師が説いたのは「一切衆生無仏性」。
釈尊は「有る」と言い、潙山禅師は「無い」と言った。
有と無では言っていることが正反対であり、どちらの言っていることが正しいのかと、疑問に思った人物がいたわけである。


しかし、この「どちらが正しいか」という考え方には問題がある。
これはどちらも正しいのだ。
仏性をどの角度から述べたかというだけの違いであって、どちらも紛れもなく仏性について述べられていることを間違えてはいけない。


ただそれでも、潙山禅師の「一切衆生無仏性」の言葉は、とりわけ素晴らしいものであるのも事実である。
塩官国師は「有仏性」と言ったが、これは釈尊の「悉有仏性」と方向を同じくするものであり、釈尊が握っていた杖に自分もまた手をのばして握るようなもの。
「有仏性」は優れた言葉ではあるのだが、一つの杖を二人で摑んでいるように、根本では同じことを言っている。
しかし「無仏性」はそうではない。

41節

いま大潙はしかあらず、一条拄杖呑両人なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫なり。しかあれども、法孫は、師翁の道に老大なり、法子は、師父の道に年少なり。いま大潙道の理致は、一切衆生無仏性を理致とせり。いまだ曠然繩墨外といはず。自家屋裏の経典、かくのごとくの受持あり。さらに摸索すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。もし仏性あるは、これ魔儻なるべし。魔子一枚を將来して、一切衆生にかさねんとす。仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。「張公酒を喫すれば李公醉ふ」といふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生あらず。すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。

現代語訳

潙山禅師が残した「一切衆生無仏性」は、釈尊や塩官国師が残した「悉有仏性」や「有仏性」とはやや性格が異なる。
釈尊と塩官国師が1つの杖を摑んでいるのだとしたら、潙山禅師の杖は「悉有仏性」と「有仏性」を呑み込んだ杖とでも言えようか。


塩官国師は馬祖禅師の弟子であり、潙山禅師は馬祖禅師の孫弟子である。
孫弟子の上に弟子がいるのだから塩官国師のほうが立場は上になるが、仏法で考えれば「無仏性」と言い放った潙山禅師のほうが真理をうまく言い得ている。


潙山禅師が言いたかったことは何なのか。
それはもちろん「一切衆生無仏性」ということなのだが、では「一切衆生無仏性」とは何なのか。


ここで言う無とは「何もない」ことではない。
たとえば1冊の経典があり、それを所持しているあいだは経典が「有る」と言えるだろう。
しかし経典に説かれている教えを理解消化し、自分自身が生きる経典となったとき、はたして「自分は経典を持っている」と言うだろうか。
本の形をした経典であれば、経典を持っていると、つまりは「有」であると言うこともできるだろうが、経典と自分とが別物でなくなったとき、経典はもう「有」ではない


しかしそれは経典が無いのでもない。
自分が経典そのものとなったときには、もはや経典を持っているとは言わないが、では経典が無いのかといえば、そうではなくて自分という経典がある。
潙山禅師の「無」とは、単に存在の有無を意味しているのではなく、有無で言えないところ、自分と経典が別物ではなくなった妙を指して「無」と呼んでいるのだ。
一切衆生が仏として生きているとき、一切衆生と仏は別物ではなくなる。
潙山禅師に言わせれば、それは「無仏性」なのである。


ここのところはもう少し踏み込んで考えてみたほうがいいだろう。
潙山禅師は、一切衆生に仏性があると表現することを疑問視している。
もし仏性というものが「有る」と言ってしまうのなら、それは悪魔の類いの言であると。
悪魔の言葉を1つ借りてきて、一切衆生という言葉の上に重ねてしまうような愚言であると。


仏性はどこまでいっても仏性であり、衆生はどこまでいっても衆生である。
衆生はもとから仏性を具えてなどいない。仏性とは現すものである。
だから仮に仏性を具えようと思ったとして、衆生が仏性を具えるとは一体どういうことなのか。
張さんが酒を飲んで李さんが酔っ払うなどということはあり得ないのに、衆生が仏性を具えるとはどういうことなのか。


衆生が仏として生きるとき、そこにもはや衆生はない
仏が衆生として生きるとき、そこにもはや仏はない
それだけのことだ。

42節

このゆゑに百丈いはく、「衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗ず。衆生に仏性無しと説くもまた仏法僧を謗ずるなり」。しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。
且問你、大潙、百丈しばらくきくべし。謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得すやいまだしや。たとひ説得せば、説著を罣礙せん。説著あらば聞著と同参なるべし。また、大潙にむかひていふべし。一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性は夢にもまた未だ見ざること在るなり。試みに挙げて看よ。

現代語訳

「有仏性」または「無仏性」について、百丈禅師は次のような言葉を残している。

「衆生に仏性があると説くのは仏法僧を謗るのと同じである。
衆生に仏性がないと説くのもまた仏法僧への謗りである」


百丈禅師の言うとおりであるなら、「有仏性」も「無仏性」もどちらも謗りということになる。
確かに、「有」「無」と言ってしまうと、「有る無し」に捉われるような弊害を引き起こしかねないので、謗りと指摘するのもわからなくもない。
が、しかし、それなら「有仏性」「無仏性」という言葉を使わないほうがよかったのだろうか。
いや、それは違う。


百丈禅師に真相を訊ねてみたいものだが、禅師はおそらくはこう思っていたのではないか。
「有仏性」「無仏性」の語は謗りであるが、謗りという方法によって仏性が説かれているのも事実であると。
有仏性という謗りが仏性を説いている。
無仏性という謗りに耳を傾ける価値がある。
そうではないだろうか。


また潙山禅師にも訊ねてみたい。
一切衆生無仏性の語は見事に真理を言い得た言葉であるが、ほかに言いそびれている言葉があるのではないかと。


たとえば、一切衆生無仏性とは言ったが、一切仏性無衆生とは言い残していない。
一切が衆生であると言うとき無仏性なのだとしたら、一切が仏性であるときは無衆生のはずだ。
あるいは、一切諸仏無仏性と言うのもよいのではないか。


無論、それらすべてをひっくるめての一切衆生無仏性なのであろうが、可能ならばそのようなことを訊ねてみたいものだ。
百丈禅師よ、潙山禅師よ、あなた方はどんな返事をされるだろうか。


43節

百丈山大智禅師、衆に示して云く、仏は是れ最上乗なり、是れ上上智なり。是れ仏道立此人なり、是れ仏有仏性なり、是れ導師なり。是れ使得無所礙風なり、是れ無礙慧なり。於後能く因果を使得す、福智自由なり。是れ車となして因果を運載す。生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず、五陰に処して門の開るが如し。五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり。若し能く恁麼なれば、階梯勝劣を論ぜず、乃至蟻子之身も、但能く恁麼ならば、尽く是れ浄妙国土、不可思議なり。

現代語訳

百丈禅師は弟子たちにこう言った。


「仏とは最上の導きである。
仏とはこの上ない智慧である。
仏として生きるところに、自己に立脚した生き方がある。
そうして生きる姿が仏であり、仏性のなせるわざである


仏とは導く者をいう。
何からも邪魔されることのない風のような自由闊達なはたらきでもって人を導き、そのはたらきには少しの執着もない。
何かをしたら何かを得られるというような因果に捉われることもない。
世間的な福徳にも捉われない。
だから仏は自由であり自在である。


仏とは、車を作って因果を運ぶようなものなのだ。
仏の上に因果が乗っているのであり、因は仏因、果は仏果。
何をしたところで仏から離れることがない。
だから因果に執着などするはずもない。


因果への執着を離れると、生き死にへの執着からも離れるようになる
生まれたのなら、生まれたように生きる。
死ぬのなら、死ぬように死ぬ。


眼や耳や鼻といった人間に具わる感覚器官も、外界を感受するだけで、感受されたものに執着を留めることがない。
常に開かれている門のように、内に留めておこうとする執着がない。
執着がないから、いつでも門を出入りすることができる。
五蘊がどれだけ外界を感受しようと、感受したものに意識を留める執着心がないから自由なものだ


このような自由に立っているとき、つまりは仏であるとき、自分を他人と比べるという思いは起こらない。
仏とは自己において完結しているのである。
たとえ小さな蟻であっても、仏として生きるなら、その蟻はすでに浄土に立っている
これが仏道でいうところの不可思議というものだ」

44節

これすなはち百丈の道処なり。いはゆる五蘊は、いまの不壞身なり。いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり。生を使得するに生にとどめられず、死を使得するに死にさへられず。いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖することなかれ。すでに仏性の処在なり、動著し厭却するは外道なり。現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり。これ最上乗なる是仏なり。この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。

現代語訳

以上が百丈禅師の言葉である。
眼や耳や鼻といった感覚器官も、感受したものに捉われれば執着だが、感受したままに終えるのなら仏性である
行うことすべてが自由自在であり、どこにも執着を留めることがない。


生きることに真っ直ぐだが、生きることに執着しない。
死ぬことに真っ直ぐだが、死ぬことに執着しない。
むやみに生を愛することはない。
むやみに死を恐れることはない。
仏としての性質を発揮すれば、人はそのように生きられる


仏としての性質を発揮し、仏として生きるなら、世界は仏の世界となる。
しかし求める心や厭う心を起こせば、すぐさま仏から外れることになる。


目の前に広がるすべての現象・存在が、縁によって起こった結果であると受け取ることができれば、少しの執着も起こさずに真理を受け取ることができるだろう。
執着に邪魔されることのない精神こそ、最上の仏のあり方である。
こうして生きる人、つまりが仏として生きる場所を指して、仏教は浄土と呼んでいる