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仏教が説く「幸せ」の意味

仏教の幸せ

仏教が説く「幸せ」の意味

幸せというと、人は大抵ハッピーな気持ちを想像する。
嬉しい、楽しい、心地よい。そういった気持ちが「幸せ」なのだと。
しかし仏教ではそれらを幸せとは呼ばなかった。


仏教において「幸せ」という言葉を使用するなら、その言葉が意味するのは「平穏」と表現するに近い心である。
この平穏といった心を、仏教では寂静と呼んでいるが、専門的な言葉を使う必要はない。
要するに平穏である。


心が何に対しても執着を起こさずに平らであること。穏やかであること。
今自分の身に起きていることに対して良し悪しといった価値判断をつけず、ありのままに受容すること。
水鏡のような平穏な心で生きることが、仏教が指し示す幸せというものの具体なのである。


それはなぜなのか。


私たちは誰もが幸せを求めている。
もちろん人によって「幸せ」が意味するところは異なっている。
出世することが幸せだと思う人、結婚することが幸せだと思う人、美味しいものを食べることが幸せだと思う人。
世の中には十人十色の幸せがあるだろう。


だから幸せという言葉が何を意味しているかは人によって異なるのだが、それでも例外なく言えるのは、人は誰もが幸せを求めているという、そのことである。
もしも「私は幸せなど求めていない」という人がいたとすれば、幸せなど求めていない状態が、その人にとっての幸せということだ。


仏教の創始者であるブッダも例外ではなく、やはり幸せを求めた。
どんな幸せを求めたのかと言えば、老いや病、あるいは死といった、生物にとって根源的とも言える恐怖から逃れることが、ブッダが求めた幸せだった。


しかし奇しくも、ブッダがやがて悟ったものは、老いや病や死から逃れることが幸せなのではないという驚くべき事実だった。
探していた幸せは、じつは幸せなどではなくて、ただの執着だったことブッダは気づいたのである。
老いから逃れたいのは若さへの執着、病から逃れたいのは健康への執着、死から逃れたいのは生への執着だった。


ブッダが悟ったのは、老病死から離れたところに幸せがあるのではなく、老病死を厭う気持ちさえ生じなければ、老病死が苦になることはなく、老病死とともに幸せに生きることができるという発見だった。
苦を厭うのではなく、快を求めるのでもなく、今自分の身に起きていることをあるがままに受け入れて生きていく。
つまり老病死を厭うことなくそのままに受容するというのが、ブッダが辿り着いた答えだった。


ブッダは、老いる自分に対して良いとも悪いとも価値判断せず、ただ「老いである」と事実をそのままに受容した。
こうしてブッダは、老病死から逃れることができない人生のなかで、それでも老病死に悩み煩うことなく平穏に生きるための「真実を見抜く智慧」を身につけた。
ブッダが説いたのは、この「真実を見抜く智慧」の中身である。


当初、老病死を嫌い、若く健康で生きることが幸せだと思っていたブッダは、悟りによって、まさにその「若く健康で生きることが幸せ」という思い込みこそが、自分を苦しめる根本的な原因であることを知った。
苦悩の原因は老病死それ自体にあると思っていたが、じつはそうではなかったのである。
老病死が原因なのではなく、老病死から逃れなければ幸せにはなれないという誤った思い込みが、ブッダを苦しめていた原因だった。


人は苦から逃れたいと思い、快を求める。
そして快を得ることをもって幸せと呼んでいる。
だから幸せとは、快を感じることであり、そのためには何かを得る必要があった。
しかしその何かを得られずに、人は苦悩する。


老病死が苦で、若健生が快だとした場合、生物であるところの人はどうしても後者の快を望む。
生存を望むのは、生物にとってもはや本能ともいえるものだからだろう。
しかしそれが得られることはなく、むしろ徐々に失われていき、思い悩むことになる。


世間において人が亡くなることを「不幸」と呼ぶのは、死が苦の最たるものであるとの認識が一般的であることを端的に示している。
本当は死は不幸ではなく、ただの死であり、ただの死を人の価値によって不幸なことと判断しているだけなのだが。


だからブッダは、そうした思考自体が誤りであることを説いた。それが仏教である。
老いから逃れたら平穏な心になるかといえば、決してそうではない。
仮に若さを手に入れることができたとしても、その人が老いを苦、若さを快と考えている限り、老いへの恐怖が消えることはなく、若さを手放したくないという執着心も消えることはない
いつまでたっても平穏な心で生きることはできない。


だからそうではなく、老いるままに平穏に生きることをブッダは説いた。
価値判断をはさまなければ、老いはただの老いでしかない。
良いことでも悪いことでもなく、ただ老いというだけのことであると。
老いるままに幸せに生きればいいだけだと。


これが苦も快も求めずに平穏に生きることが幸せであるという、仏教が説く「幸せ」の意味である。