御詠歌・梅花流詠讃歌ってどんな感じ?
禅・曹洞宗には梅花流詠讃歌(ばいかりゅうえいさんか)(通称「梅花」or「御詠歌」)という名の、仏の教えを歌詞にした歌がある。
それぞれの寺院ごとに梅花講という、いわば梅花を歌うチームのようなものがあって、練習を重ねて法要や大会で歌ったりするのだが、じつは今この梅花講は存続が危ぶまれている。
チームの構成員(梅花講員)が高年齢になりつつあり、引退等によって講員数が著しく減少しているのだ。
このままで梅花が消滅してしまいかねない。どうにかならないものか。
とは思うものの、私自身が梅花についてほとんど何も知らない。これでは話にならない。
ということで、梅花流詠讃歌をこよなく愛する智照院のお庫裏さん、宮崎智美さんのもとを訪ね、梅花の魅力や梅花講減少などについて話を伺うことにした。
取材当日は梅花の練習の日で、智美さんのほかにいつも一緒に勉強をしている寺院関係者が3名。
皆さんに話を伺うと、知っているようで知らなかった梅花の魅力や、梅花講員減少の意味するところ、今後の梅花の在り方など、目から鱗の示唆に富む意見を数多く聞くことができた。
※1万字ほどの長文なので、下の目次で気になる項目をクリックしていただければ、そこから読むことが可能です。
梅花流詠讃歌とは
梅花をご存じない一般の方のための予備知識として、そもそも梅花流詠讃歌とは何かということについて少々。
梅花流詠讃歌とは、「鈴(れい)」と「鉦(しょう)」という2つの楽器(法具)を用い、仏の教えや仏を礼讃する思いを歌にした仏讃歌である。
キリスト教における讃美歌の和製バージョンのようなものと思っていただければ近いかもしれない。
百聞は一見にしかずということで、梅花をご存じない方は、一度下の動画をご覧いただきたい。
富山県で行われた平成28年度の梅花流詠讃歌奉詠全国大会の模様である。
全国大会まであるの!? と思われた方、あるのである。
ちなみにこの動画は4時間以上のボリューム満点の内容となっており、1時間20分ほど経過したあたりから梅花講員による奉詠が始まるので、とりあえずそのあたりを一度ご覧いただきたい。
まあ、興味のある方は最初から観ていただいてもかまわないが……。
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記事中の登場人物
☆智美さん☆
梅花の可能性を追い続ける練習会のリーダー、智照院のお庫裏さん。
☆隆弘さん☆
車の運転中は梅花CDの無限リピート、大覚寺のご住職。
☆きりさん☆
飽くなき向上心で学ぶこと大好き、瑞巖寺のお庫裏さん。
☆きよみさん☆
やわらかで美しい歌声の持ち主、智美さんのお姉さん。
☆佐藤 隆定☆
音痴のため梅花には手を出さずに生きてきた僧侶、筆者。
梅花流詠讃歌に対する印象
先ほど練習風景を見学させていただきました。みなさん真剣ですが、とても楽しそうな雰囲気で、なんだかすごくいい感じの練習会ですね。
皆さんはご詠歌(梅花)というものをどんなふうに感じていらっしゃるのですか?
楽しいです! 僕は。
「The 楽しい」って感じです。
隆弘さんを見ていると、本当にご詠歌が好きなんだなという感じが伝わってきます。
左手にギブスはめてるのに練習してますし。手のほうは大丈夫なんですか?
大丈夫です!
ギブスはじつは明日取れます!
それはそれは(笑) おめでとうございます。
きりさんはどうですか?
楽しい……お唱えができるようになると楽しいです。そこまでの道のりは勉強って感じかな。で、そこから1曲1曲楽しさが出てくるっていう感じです。
なるほど。きよみさんはどうですか?
う~ん、「難しい」です。
私の場合は長年かけてやっとここまでこれたっていう感じなんです。
すごく勉強したっていうわけでもないんですけど、週1回の練習で、みんなとお唱えすることでようやくできるようになってきました。
練習してもすぐに上手くはなれなかったし、長年かけてできるようになってきているので、上手にお唱えするのは難しいなと思います。
まあでも、時間がかかっても少しずつできるようになっていけたらいいかなぁと。
それは楽しいというよりも、達成感のようなもののほうが強いということでしょうか?
ええっと、少しずつできるようになっていくのが楽しいという感じです。
先ほど檀家さんの生徒さんと少しお話をしましたが、その方も「私、難しいほうがいいのよね」っておっしゃっていました。
「適当に教えてもらうくらいなら、習いたくない」とも。
僕自身の認識としては、習得に励むというよりも、その場の雰囲気が楽しいというか、フランクな感じの楽しさが好きでご詠歌を続けているのかと思っていましたが、割と本気で学ぶことに楽しさを感じていらっしゃるということなのでしょうか。
簡単にはお唱えってできないんです。
イロとかツヤとかアヤとか、声の技術的な部分も色々あって。
自分の中の完成まで、まだまだ距離があります。
お唱えしていくうちに段々とできるようになっていくというところが楽しいというのは、ご詠歌を習う方全員に共通する感覚だと思います。
そういった段階自体が、楽しさにつながっているという感じです。
きりさんもそのような感じですか?
ええ。
ただ私は在家からお寺に嫁いできて、何も知らないところからのスタートでした。
それでご詠歌に誘っていただいて、参加させていただくようになって。
なのでお唱えができるということより先に、仏様とか仏教にふれることができるという楽しさのほうが強いです。
お寺の行事をしていても、その行事の中味というか仏教の内容にふれることはあまりできないんですよね。
そういったことを、ご詠歌を通して学ぶことができることが嬉しいというか。
いろいろな考えを知ることができるというのも面白いですし、そういった場にいられること自体もとても良い機会だなと思っています。
ご詠歌で学んだことが日常にかえってくるというか、そういう印象が一番強いんです。
あぁ、いいこと言う。泣けるわ……。
(泣くの早っ……)
一般の方にとっては、ご詠歌というのはほぼ100%「歌」として認識されているのではないかと思うのですが、「教え」の部分が多少なりあるという感じでしょうか?
はい、その要素は大きいと思います。
きよみさんはどう思われますか? 歌なのか、歌だけではないのか。
歌詞の解説を智美さんからしてもらうと、ああそういう意味なんだって、曲の深さが伝わってきます。
やっぱり噛み砕いて教えていただいて、こういう内容だったんだとわかると、唱えるときに親近感が湧いてきますし。
それに歌詞に込められた想いがわかると、こちらの気持ちも変わってきます。
それはお経に関しても同じかもしれませんね。
意味を知るとお経が違ったふうに感じられるという意見はよく耳にします。
今みなさんの意見を聞きますと、「楽しい」という点では共通していても、その「楽しい」が意味するところというのはだいぶ幅がありそうですね。
純粋にご詠歌をお唱えすることが楽しいという気持ちから、上達することが楽しい、達成感が楽しい、人の考えや仏教の考えにふれること学ぶことが楽しいなど、いろいろな意味の楽しさがあるのだということがひしひしと伝わってきました。
指導者の重要性
「楽しい」という気持ちのいくらかが「学ぶ」ことに根ざす以上、ご詠歌を教える指導者の重要性は高いような気がします。
仲間(生徒)だけでわいわい練習するというだけでは、今の生徒さんの要望には応えられないのではないかと。
そのあたりについて、教える立場である智美さんはどう考えていますか。
まず、指導者になることを遠慮する宗門関係者の方はどうしても大勢いらっしゃるように感じます。
歌が上手でなければいけないとか、下手だから指導者にはなれないとか、そういったことを気にしすぎているからかもしれません。技術面に意識が向きすぎというか。
ご詠歌って、基本的には合唱なんですね。
独詠っていう、単独でご詠歌をお唱えする場面も稀にはありますが、そんなことはほぼありません。
だから上手下手というのはそれほど気にすることではなくて、むしろ大切なのは好きかどうか。
合唱を通して宗門の教えを学んだり、伝えたりするところにご詠歌の良さがあるのではないかと思っています。
それが指導者の意味でもあるのかなぁと。
先ほどのきりさんの話のように、学びの要素というか教えの要素がいくらか含まれて然るべきだということですか?
いくらかではなくて、むしろ8割は教えなんじゃないかと思います。
えっ、そんなにですか!
曲がついているだけで、教えが主体だと思います。
だから最近はお経を読んでいる感じとそんなに変わらないイメージなんですよね。
写経も同じ感じです。
そういう認識だったんですか。意外でした。
ただ、歌というレベルで考えて、しっかり学びたいという方に応えられるのは、やっぱりそれなりの歌う技術を持った先生でないと務まらないのではないでしょうか?
それも考え方だと思います。
もちろん技術があるに越したことはないんですが、そうでなくても、たとえばおしゃべりを通してお寺に人を集めることができるのであれば、それが1つの才能だと思いますし。
それでいいとも思うんです。
たとえご詠歌が上手でなくても、ご詠歌を通して仏教を学んでいくことができれば。
ご詠歌も読経も写経も、すべては教えが主たる要素としてある。
そこを一緒に学ぶのが1番の目的であって、熟練度が1番ではないという認識は、指導者にとっては重要な意識であるのかもしれませんね。
ちなみに、私は檀家さんの生徒さんにご詠歌を教える時は、あまり技術的に細かなことは言わないようにしています。
指導者を養成するというような目的とは違いますから。
目的が違うとは、先ほどから話題になっている、教えが主たる目的ということですね。
指導者の場合はある程度、技術的なものも教えていく必要があるけれど、ということでしょうか。
技術ももちろんおろそかにすべきではないでしょうけれど、仏教を学ぶというもっと大事な要素がご詠歌にはある。
ご詠歌の指導者とは何なのかが、少し見えたように思います。
ご詠歌に取り組む生徒さんの姿勢の変化
引き続き智美さんに対する質問になりますが、我々僧侶の間でたまに出る意見として、このようなものがあります。
「梅花講員さんも、大人になってまであれこれ注意を受けたくはないだろうから、あまり細かいことは口出しせずに、緩く練習したほうがいい」
悪く言えば、ダラダラとやるという感じになるかと思いますが、このような意見についてどう思いますか。
昔は娯楽がなかったから、お寺に集まってお茶を飲んでおしゃべりしているだけで充分に楽しかったようです。のんびり話をするだけで。
でも今は何でもあります。教養を得る場、カルチャースクールなどで何でも学ぶことができます。それだけ何かと忙しく、現代は高齢者も暇じゃない。
なので最近の習い事はちゃんとした目的がないと成り立たないと感じています。
だからみなさん本気ですよね。学ぶために1時間なり2時間なりを有効に使いたいという方ばかりなので。
そういう方じゃないと新しく習おうとは思わないような気がします。
なるほど。生徒さんの学ぶ姿勢に変化が起きているわけですね。それはとても興味深い話です。そこを受け取り誤ると、まったくニーズに応えられませんから。
では、先ほどの僧侶の認識というのは、危ないかもしれませんね。
ただ、それも間違っているわけではないとも思うんです。
20年とか30年とか長年習っている方々に本気を求めると、はっきり嫌がられますから(笑)。
「私たちはそんなに上手くなりたいわけじゃないのよ~、あっはっは~」て。
だからじつはうち(智照院)でも、母が教えていた頃と、私が教えるようになってからとでは、かなり雰囲気が変わりました。
はじめは2つのグループに分かれて並行して教えていましたし。
どうしても目的が若干異なっているので内容も違ってくるんですよね。
それで、結局今は私のほう1つだけになりましたけど、やっぱりみなさんかなり本気ですね。
検定も受けられますし。
昔と今とではご詠歌の存在意義にも違いがあるし、生徒さんの姿勢にも違いがある。
昔の意識、つまりはお茶を飲んで世間話をする延長線上にあるご詠歌を維持しようとすれば、現代の新規の生徒さんは集まらないかもしれない。
それは現代において求められていないから。
逆に、新規の生徒さんを発掘しようと思うのであれば、ご詠歌の良さを本心で感じていただかなければ難しい、ということでしょうか。
生徒さんも梅花の質を見極めようとしているのかもしれません。
これは非常に重要な提言であるように思います。
ご詠歌を広める方法
ご詠歌は現在縮小傾向にあります。消滅の危機といっても過言ではないかもしれません。
現に、曹洞宗はかなり危機感を募らせています。
このような状況にあって、どうしたらご詠歌を再び盛り上げることができると思いますか?
うちのお寺にはそもそも梅花講がないんですよね。
では梅花講を新しく作ろうと思った場合、どのようにしたら人が集まると思いますか?
まずは聞いてもらうことだと思っています。
檀家さんに「ご詠歌って聞いたことありますか」って訊くと、ほぼ「ない」ってかえってきます。
なので法事の際などに自分でお唱えして、一度聞いてもらう。
梅花ってこういう曲なんですよ、ってのを、お茶を飲みながら実際にお話させていただいています。
そういったところから、梅花の楽しさというか、梅花に興味を持っていただいて、少しずつ梅花にふれる機会を作っていくのが大事なんじゃないかと。
そもそも聞いたことがない。だからまずは聞いてもらう。根本的な具体策ですね。
じつは先ほど檀家さんの生徒さんにご詠歌を習おうと思ったきっかけを訊きましたら、こちら(智照院)で法要があった際に智美さんのお唱えを聞いて、それがあまりにも良かったからとおっしゃっていました。
おおぉぉぉぉ~ほぉほぉ~(奇妙な照れ笑い)
そういうのだと思います。本当に。
そんなお唱えを自分でもできるようにしたいです。
ちなみに、その生徒さんですが「あまりにも」の部分にめちゃくちゃ力を入れて「あまりにも」って言っていたので、相当良かったんでしょうね。
おおぉぉぉぉ~ほぉほぉ~(奇妙な照れ笑い2回目)
じつは僕自身、祖母の葬儀で梅花を唱えて下さった方がいて、それを聞いてすごく涙したんです。
すごくいいなと思いました。
それが梅花を学びたいなと思ったきっかけでもあります。
そういった思いで深いきっかけがあったんですね。なるほど。
やはり実際に自分の耳で聞いてみるというのは大事ですね。
きりさんはどうですか?
私はたぶん、檀家さんととても近い感覚でいると思います。
自分が最初、なかなかご詠歌に足を踏み入れることができなかったのは、ご詠歌というものを格式の高いものと感じていたからだと思います。
茶道とか華道のようなすごく格式の高い習い事というイメージがあって。
そんなふうに思ってなかなか一歩を踏み出せない檀家さんも大勢いらっしゃるんじゃないかと思うんです。
ご詠歌のイメージとは具体的にどのようなものだったのですか?
ご詠歌をはじめる前は、お経が曲にのっているという、歌だけのイメージでした。
ところが学んでみて、そうじゃないことがはじめてわかりました。
いろんな教えがご詠歌には含まれていて、自分たちの生活にも結びついてる教えが、練習のなかで自分の中におちていくような楽しさがありました。
お寺をすごく身近に感じられるような嬉しさといいますか。
一歩さえ踏み出すことができれば、多くの方にそう感じていただけると思うんです。
なので、もっともっと身近なところに下ろすことが大事なんじゃないかと思います。
まずは試しに歌ってみるという、体験の場がたくさんあればいいなあと。
入りがもうちょっと身近なものであれば、違ってくるのではないかと。
入りづらいという感覚が強いんですね。
そうですね。どうしても見えてこない部分が多いので。どういった練習をしているのかとかも含めて、何もかも。
歌を歌っているということ以外がわからないといいますか。
なので簡単に練習ができる体験の場があればいいのかなって思います。
プチ体験みたいな。
法要の前とかに?
そうそう。
みなさんで一度やってみましょう。ここの歌詞はこんな意味です。とか。
そうすると、そんなに身近なものだったのね、って理解してくれるような気がします。
私自身、義母がご詠歌をお唱えしている姿を見ていても、難しいことをされているな、とか、何十年もお寺に暮らしているからできることなのかな、ってことぐらいしか感じられませんでした。
それが、そんなに高いハードルではないということを、体験を通して知っていただけたらなと思います。
きよみさんはどうですか?
私も同じです。
たとえばお彼岸とか何か行事の時に、歌詞カードさえ見ることができれば少しお唱えできるようなご詠歌をみなさんでお唱えしてみるのがいいのではないかと思います。
やはり、まずは一度実際に唱えてみることだと。
そうです。みんなでお唱えできるようなご詠歌を、行事のときなどに唱えて、慣れ親しんでもらうのがいいんじゃないかと思います。
なるほど。
実際に聞いてみる、聞いてみたら、今度は歌ってみる。
そういった体験が後々実を結ぶことはありそうですね。
そうそう、もっと子どもに聞かせればいいんじゃないかとも思います。
家で練習していても、子どもってすぐに歌として覚えるんですよね。
そうした経験が後になって形としてあらわれてくることもあるんじゃないかと思います。
なので「禅の集い」とか、お寺に子どもが集まる機会があれば、そういった時にみんなで梅花を歌ってみるのは意味があるんじゃないかと。
知らなければ、当然知らないままですから、みなさまの意見にあるように機会をたくさん設けるということは大事であるように思います。
何度も聞いてみる。実際に歌ってみる。
そうした中で興味が湧くという可能性は十分に考えられますね。
ご詠歌に対する気持ちベスト3
では最後の質問です。
ご詠歌に対する思いで、上位3つを挙げるとしたら、どんな気持ちを挙げますか?
たとえば、智美さんの教え方が恐いから、1番は「緊張」とか。2番目に「楽しい」とか。
楽しいということは重々わかりましたが、もうちょっと複雑な思いもあるのではないかと思いまして。
なんかちょっと、プレッシャーかも。
みなさん悩まれているようなので、こういうときは隆弘さんからお願いします(笑)
え~、なんだろう。
でもまあやっぱり、お唱えすることがまずは楽しい。
それから……練習した成果を聞いてもらいたい、っていう楽しみもある。
それからおしゃべりも楽しい。
なんと、1、2、3、全部楽しい! すごく楽しい会に聞こえますね。
だって楽しいですもん(笑)
車の中とか、いつも梅花のCDかけてるし。
ほんとに今、ご詠歌が楽しい。
その気持ちだけであと10年は歌い続けられますよ(笑)
きりさんはいかがですか?
1番は、たぶん「向上」だと思います。
社会に出て、結婚して、人生のステップを1つずつ上がっていくなかで、勉強するってことがすごく大事だと思うようになったんです。生きる上での支柱のように。
その1つとして自分にとってのご詠歌があるんじゃないかと思っています。
なんか、自分を前に前に進ませてくれるものっていう感覚があるんですよね。ご詠歌に対して。
練習してもなかなか上手くできないとか、大変なこともあるんですけど、何が自分を頑張らせるかのかって思うと、やっぱり向上心なんじゃないかって思います。
2番目は、お寺に暮らす者として、お寺に関することを学べたらいいなという思いがあります。
仏教を身近に感じられる場っていうのは、すごく身が引き締まる感覚があるんです。
ご詠歌を通して感じられることって沢山あると思うんですけど、お寺に関すること、仏教に関することも身につけていけたらいいなって思っています。
3番目は、同じような境遇の方と一緒にご詠歌をやらせていただいたり、お話をさせていただくことで、1人ではわからないことを知ることができるという感じでしょうか。
自分のお寺だけではわからないものってやっぱりあると思いますし。
しかもそういった場所ってほとんどないんですよね。
だからここは貴重な場所だと思っています。
全体的に「学びの場」としての印象が強い感じですね。
きよみさんはいかがですか?
私は……上手くなりたい、っていう思いが1番。
それは、純粋に歌うことが上手くなる、ということですか?
そうです。お唱えが上手くなることです。お唱えが上手にできると、自然と楽しくなってきますし。
ここでの練習がなければ、私はたぶん家で1人では練習できないと思うんです。ここでみなさんと一緒にお唱えすることで、なんとか練習ができている。
自分では気付けないこともたくさんあるでしょうし。
なので、みんなと一緒にやるからはじめて上手くもなれるという感覚でいます。
2番目は、みんなで歌うことが楽しい。
ご詠歌自体がもちろん楽しいんですが、みんなで一緒にお唱えするのはやっぱり違う楽しさがあります。
人前で歌うことではじめて上手くなれるという部分も感じています。
3番目は、ご詠歌に限定することではなくて、話をするのが楽しいということです。
みなさんこういうことを考えているんだとか、こんなことに関心があるんだとか、よくご存じだなとか、そんなことにふれることができるのもいい時間だなって思っています。
なるほど。
智美さんはいかがですか?
「梅花とは」と問われたら、何と答えますか?
生き甲斐ですね!
というのも、私はずっとお寺とは別の仕事をしてきました。けっこうプライドを持って、これからもずっとやっていくつもりで。
でもお寺が忙しくなってくると、どうしても仕事を辞めざるを得ない状況になってしまいました。
そんなときに梅花に救われたんです。
救われたといいますと?
きりさんと同じで、私も女性であっても社会と関わって生きていきたいと思っていますし、ずっと何かを学び続けながら生きていきたいと思っています。コンスタントにずっと。
けれどそれがお寺と一切関係のない事柄や趣味であったら、住職と共有できないじゃないですか。
お庫裏さんとしての自分の向上にもならないし。
梅花は社会と自分とをつなぐもの、学ぶことのできるものということでしょうか。
梅花は、いろんな方と人間関係が築けるし、仏教を学べるし、住職と共通の話題なので一緒に話をすることもできるし、法要にも参加することができて詳しくなれるし、ほかのお寺に伺う機会もあって新しい発見もある。
2泊3日の梅花の合宿もあって、そこでも多くのことが学べます。
そういった学ぶ機会、関わる機会が毎年のサイクルとしてあることが、本当にありがたいんです。
梅花に出会っていなければ寺族になる決心もつかなかったのではないかと思うぐらいに。
なるほど。
人生の一大転換に梅花が深く関わっていたんですね。
それだけの力が梅花にあることもわかりました。
皆さま、大変貴重なお話をどうもありがとうございました。
所感
今回の取材で伺った意見をまとめると、梅花の魅力は次の3点に集約される。
- 歌う(唱える)ことの楽しさ
- 学ぶことの楽しさ
- 他者と関わることの楽しさ
梅花は基本的には歌であるから、技術的に深めようと思ったらどれだけでも深めることができる。
そうした技術的なことも含めて、上達することの楽しさや、歌うことの楽しさがまずある。
しかしそれだけではなく、歌詞に含まれた仏教的な思想や考えを学ぶことで、あたかも生きる指針を得るかのごとくに自分の糧になる部分が梅花にはある。
これは梅花が歌であり歌だけでないという特殊な性格をもつものであることが起因していると考えられる。
あまり主張されることのない要素であるような気がしていたが、むしろ最も重要視しなければいけないのはこの「学び」としての要素かもしれない。
そして、それらを複数名で一緒に行うという点にも多くの意見があがった。
僧侶の修行であっても、なぜわざわざ永平寺などの修行道場へ赴くのかといえば、答えは同じである。
仲間とともに行うことで、1人ではできないことも乗り越えることができるからだ。
その事実を、やはり多くの方が感じておられるということだろう。
そうして人と関わり合っていくことは、多くの学びももたらす。
人の考えにふれることは、新しいドアを開けるような発見に満ちている。
また、梅花の魅力とは別に、もう1点気になったことがあった。
梅花を習おうとする方の姿勢には、昔と今とで違いがみられるという意見だ。
それは梅花に求めるものの変容からきていると考えられるが、まさに重要なのはその点であり、新たに人を呼び込もうとするのであれば、何が求められているのかを把握することが不可欠である。
そしてその求めるものがより梅花の本質に近づいてきているとしたら、宗門にとってこれはむしろ朗報と言えるかもしれない。
これまで梅花の復興を叫ぶ声は、もっぱら梅花講員の増加に集約されてきた感がある。
1つの寺に何十人もの講員さんが所属していた時代を懐かしむ思う気持ちのあらわれなのか、とにかく講員数を増やすことが当面の課題とされてきた。
しかし現代における梅花の役割は、おそらく人数の多少に関わるものではない。
より本質的に「学び」としての梅花を意識する人が増えており、そうした人でなければ新たに梅花講に所属して梅花を学ぼうとは思わない時代にすでになっていると捉える宮崎智美さんの意見には、非常に共感できるものがある。
梅花の復興を掲げるのであれば、そもそも復興とは講員数の増加を指すのではなく、仏教の「教え」としての梅花が広まることを指すとの認識を持つ必要があるだろう。
梅花講員の人数は減ってきているが、数値だけを見て梅花の栄衰を論ずるのは早計であると言わざるをえない。
見方を変えれば、梅花は濃縮してきていると捉えることもできるからだ。
重要なのは何なのか。もう一度考えなければいけない時代になってきていることは間違いないだろう。