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【禅語】 下載の清風 - 余計な荷物を背負ってはいないだろうか -

下載の清風

【禅語】下載の清風(あさいのせいふう)

重い荷物を山のように積んだ帆船が港に入る。
積んでいた荷物をすべて下ろし、軽やかになった船は追風を帆に受けて颯爽と港を出て行く。
船上を吹き抜ける風さえもが、清々しく感じられるような情景。


下載の清風」とは、心に溜め込んだ荷物を下ろすことができれば心にもそんな清風が吹くという、「捉われ」を背負ってしまっている人にぴったりの禅語である。


ちなみにこの「下積の清風」という禅語は、『碧巌録(へきがんろく)』という書物のなかにある「万法帰一(ばんぽうきいつ)」と題された一則に添えられている言葉。
なのでまずは、「万法帰一」という話を確認しておこう。


万法帰一

ある修行僧が趙州(じょうしゅう)和尚に問いかけた。


「儒教では、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ずと説いています。
したがってこれを逆に考えれば、万物は三に帰し、三は二に帰し、二は一に帰すとなりましょう。
つまり、万法は一に帰すというのが存在の道理であり、その道理は禅の悟りを得たことでよく理解できました。
しかし、あらゆる存在の根源であり帰着点となる一は、一体どこに帰するのでしょうか


いかにも理知的な問いに対し、趙州は次のように答えた。


「わしが青州におった時にな、一着の布を作ったことがあってのぉ。
あの時は張り切って3㎏以上もある布を作ったわい」


……?
それが、質問の答え?
まさに「THE・禅問答」のようなこの話が「万法帰一」。


そしてこの話の注釈というか、解釈というか、見解というか、後に添えられた七言四句があるのだが、その転句と結句が
「如今(にょこん)、抛擲(ほうてき)す西湖の裏(うち)」
「下載の清風、誰にか付与せん」
となっており、そこからこの「下載の清風」という禅語は有名になった。


転句と結句に綴られている言葉の意味自体は、決して理解するのが難しいわけではない。


修行僧が問いかけた「一」なんてものは、西湖に投げ捨ててしまった。
迷いを捨て去ったが、悟りもまた捨て去った。
やれ悟りだの、やれ悟りの帰着する場所だのという騒がしい荷物を肩から下ろした今の清々しさ
この風の心地よさだけは言葉では伝えきれない。


と、おおよそこのような意味の転結句である。

清々しい風を受けて

禅では理知的な理解は体験的な理解に及ばないと考えるが、どちらであろうとその理解に執着している限りはどちらも真の理解ではないと考える。
正解を摑んだのなら、その正解というものを捨て去ってこそ、からっと晴れた日の下で清風を受ける境地に踏み入ることができると


吹き抜ける一陣の風の心地よさを全身で感じることができるのは、いずれの答えからも離れた時。
つまり「下載の清風」とは、あらゆる荷物を下ろした後に感じることのできる風のこと。


さて、下載の清風という添え書きをもらった趙州の答え、
「あの時作った布は重かったなあ」
は、問いかけた修行僧からどんな荷物を下ろすための言葉だったのか


書こうと思えば何か書くことはできるが、これはもう各々が感じるしかないのであって、これ以上何を書いても蛇足になりそうなのでここらでやめておいたほうがいいのかもしれない。


禅問答はわかりにくい。
もとより、頭でわかろうとするものではないのだから、当然と言えば当然なのだが。


ある瞬間にハタと気付く。
グッと突き刺さる。
ポーンと底が抜ける。


だから禅語は難しい。
だから禅語は面白い。


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