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「挨拶」って仏教の言葉だったの? - 身近な仏教用語 -

挨拶,仏教用語

【挨拶】身近な仏教用語の意味

朝起きて、家族と顔を合わせればまず「おはよう」と挨拶をする。
職場に行っても「おはよう」と挨拶をする。
コミュニケーションの最たるものとして挨拶はなされるが、この挨拶という言葉はもとを辿れば仏教に端を発する仏教用語なのである。



挨拶の「挨」とは「推しはかる」「近づく」「触れる」といった意味で、「拶」は「せまる」「切り込む」という意味。
これだけを聞くと、なんだか少し物騒な言葉のようにも感じられるかもしれない。
それもそのはず、古来禅宗では、師匠が弟子に声を掛けるなどし、その返答でもって修行の度合いをはかるといったことが行われてきた。
そのような問答を挨拶と呼んできたのである。


廊下ですれ違う時に、師匠から何気ない一言がかけられる。
たとえば、そう
「中庭はきれいに掃除できたか?」
というような感じで。


言葉それ自体は中庭の掃除について問うているが、その真意がどこにあるのか。
弟子にはそれを瞬時に察することが求められるのだ。


とっさに、
「中庭=自分の心」
「きれいに掃除=心の曇りは拭き取れたか」
と解釈し、師匠は自分の修行の具合を訊ねたのだと察知する。


そこで、この問いに何らかの返答を試みる。
「今は綺麗ですが、明日になればまた新しい葉が落ちているでしょう」
という感じでもいいかもしれない。


そうやって「掃除に終わりはないし、修行にも終わりはない」のだと、言外に伝えるのである。
本を読んでいると、文字ではなく行間からにじみ出てくるような筆者の思いを感じることがあるが、あのような感じで言葉の外に真意を滲ませるのだ。

言葉に付随する思い

何気ない問いにどう答えるかで自分の内面が露呈してしまうのだから、これは考えようによってはかなり恐ろしい話とも言える。
第一、常に気が抜けない。
そんなややこしい挨拶なんて嫌だと思う人もいるのではないかと思う。


実際、私は嫌だと感じた。
もっと爽やかに、シンプルに、掃除のことを訊かれたのなら掃除のことに答えればいいじゃないかと思った。
常に言葉の裏を気にするように会話をするなんてご免被りたい。
そう思っていた。ちょっと前までは。


それが今は少し違うことを思っている。
何も禅の挨拶に限らず、普段の挨拶によっても、ある程度その人物の状態を知ることはできることに、遅ればせながら気がついた。


たとえば、いつも元気に挨拶をする人が、今日はちょっと声が小さかったりすると、
「あれ? 体の調子でも悪いのかな」
と、頭をよぎるものがある。
構えて挨拶をせずとも、自ずと察するものがあるのだ


何かがおかしいことが、一言挨拶を交わすだけで自然と伝わる。
そうした能力のようなもの、異変を察知する力のようなものを、私たち人間は具えている。
おそらくは禅の挨拶もそういったものなのではないか。
構えて挨拶をするのではなく、自然と声を交わすなかに互いの意図が空気を通じて届くのだと思う。


初対面の人から明るく「こんにちは」と声をかけられれば、その人に対して好印象を抱く。
逆に、こちらが挨拶をしても無視されてしまったら、自ずと印象は悪くなる。
言葉を交わすことで、言葉以外の「何か」が交わされているのは疑いようのない事実である。
そして、その「何か」のほうがむしろ主体となったのが、禅でいうところの挨拶というわけだ。


相手の懐深くに切り込んでいく、禅の挨拶。
端的な一言に気持ちを込め、そこから「何か」を汲み取るのは、今も昔も、禅も世間も、違いはない。


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