「仏教 × SDGs」に対する一抹の違和感
このところ、SDGsと仏教を掛け合わせた発言を見聞きすることが多くなりました。「持続可能で豊かな人類社会のために仏教界も協力をしていこう」と。
SDGsが登場する前からこうした流れはありましたが、SDGsの登場によってその勢いが加速した、ということなのかもしれません。兎にも角にも、仏教界が一丸となってSDGsの実現にむけて協力をしていくといった風潮は今後も続いていくと思われます。
話を進める前に、そもそもSDGsってなに? という方もいるでしょうから、簡単に説明をしておきましょう。
SDGs(エスディージーズ)とは、Sustainable Development Goals(サステイナブル・ディベロップメント・ゴールズ)の略で、日本語では「持続可能な開発目標」と訳されています。2015年の国連サミットで採択された目標で、2030年までに17の目標を達成するために各国がそれぞれの課題に向けて取り組むというもの。ちなみに、SDGのあとにsがくっついているのは、目標(ゴール)が17こあるため。だから複数形としてsがくっついているわけです。
www.mofa.go.jp
英語が出てくると途端に小難しい感じがしてしまうかもしれませんが(私がそうなので)、要するに「人類みんなが幸せに暮らしていくための目標」を定めたのだと理解していただければ大丈夫です。17の目標は「貧困」「格差」「環境」「自然」「経済」「社会」「平和」といったテーマに関連して定められていて、実際には以下の17項目となっています。
- 貧困をなくそう
- 飢餓をゼロに
- すべての人に健康と福祉を
- 質の高い教育をみんなに
- ジェンダー平等を実現しよう
- 安全な水とトイレを世界中に
- エネルギーをみんなに そしてクリーンに
- 働きがいも 経済成長も
- 産業と技術革新の基盤をつくろう
- 人や国の不平等をなくそう
- 住み続けられるまちづくりを
- つくる責任 つかう責任
- 気候変動に具体的な対策を
- 海の豊かさを守ろう
- 陸の豊かさも守ろう
- 平和と公正をすべての人に
- パートナーシップで目標を達成しよう
これらは人間と自然が未来にわたって持続的に平和で豊かなものであり続けられるようにとの考えから生まれた開発目標であり、「誰一人取り残さない」ことがSDGsの理念として掲げられています。
はじめてSDGsを知ったという方は、こんな地球規模の大きな目標が本当に2030年までに達成できるのか? と疑問に思われるかもしれませんが、少なくとも目指すべき方向性について異論はないのではないでしょうか。
こうしたSDGsの取り組みに対して仏教界も協力をしていくという雰囲気が、以前よりも増してきているのを感じます。そのこと自体は素晴らしいことです。人を大事に、物を大事に、自然を大事に、畢竟すべての行為を大事に、というのは、我々禅僧の目指す生き方でもあります。そうした社会の実現のために私も努力していきます。
ただ、どうしても1つだけ気になることがありまして、「SDGsの取り組みこそが仏教の教えそのものだ」という考え方にだけは異を唱えておきたい。
SDGs自体は素晴らしいものであり、仏教の考え方の一側面と合致するものです。が、全面的に仏の教えと合致するかと言えば、そうとは言えません。
というのも、SDGsが目標としているのは、幸せへの「社会的なアプローチ」です。私たち人間を取り巻く様々な社会的環境(外的環境)を整備し、そのことによって個人に幸せをもたらそうという考え方。
この世の中のほとんど全ての政策は社会的なものですので、社会を変えていこうというのは現代社会からみれば至極当然な発想なんですけどね。
ただ、仏教の考え方はそうではありません。仏教が説くもっとも根本的な真理は、外的要因によって幸不幸は決まらないということ。
暮らしぶりがどれだけ豊かなものになろうと、それで個人が幸せになるかといったら、そうとは限らない。外部から幸せがもたらされるのではなく、自分自身を調えることで人は平穏安楽に生きることができる、というのが仏教の基本的な主張です。
したがって仏教が問題とするのは常に自分自身であり、自分で自分を救うことが基本となります。
もっとも、これは「仏=ブッダ」と考えた場合であり、「仏=阿弥陀仏」と考える浄土系の仏教宗派では、救いとは阿弥陀仏に救われることが前提ですので、このあたりの感覚は少々異なるかもしれません。
貧困をはじめとした社会的な問題が解決され、誰もが衣食住に困ることなく豊かな生活を送ることができる社会が到来しても、なおも解消されずに残り続ける苦。その代表が、老・病・死。
仏教が説く救いの本筋は、そうした「避けることのできない苦」に対してのものであり、社会そのものを改善していこうとする発想のものではありません。社会改革という外的アプローチをしていくのは社会を生業とする人々の本業であり、仏教の本業はあくまでも個人の内的な部分に対してアプローチをしていくもの。思考や生き方といった部分にアプローチするのが仏教の本業です。
苦の克服の方法も、老いない方法を考えるとか、あらゆる病を克服するとか、不死を手に入れるとか、そういったことではありません。
たとえば老いが苦と感じられるのは、「老いたくない」「若々しくありたい」といった若さへの執着から生じているのだから、その若さへの執着のほうを捨てようという発想が仏教の思考。不老・不病・不死への執着を持つから、思いと現実のあいだにズレが生じ、そのズレが苦悩の原因になっている。ズレをなくすために、不老・不病・不死への執着を捨てる。
これが仏教の救いの方向性です。SDGsとはちょっと違う考え方ですよね。
また、暮らし振りによって人が幸せになるとは限らないことが、仏教では明確に示されています。仏教の出発点はブッダの出家に求めることができますが、その出家こそが「幸せとは何か」という命題そのものといえるでしょう。
ブッダは一国の王子として生まれ、何不自由のない生活を送っていました。衣食住、すべてが当時の最高級のものをあてがわれ、普通に考えればこれ以上ない「快」のなかにいたはずなのに、その生活に「苦」を感じててすべてを捨てて出家しました。
これは今で考えれば、自ら貧しい生活のなかに飛び込んでいったようなものです。
なぜなのか。
簡単です。暮らし振りがいかに豊かになっても、幸せでなかったから。
老いや病や死への克服ができるわけではなく、そのために心が安まらなかったから。
ブッダは暮らし振りでは解決することのない本当の安楽を求めて出家したのです。
誤解されたくないので繰り返しますが、貧困を解消することが無意味だと言っているわけではありません。SDGsには重要な意義があります。
ただ、SDGsの目標が達成されたからといって人間から苦悩がきれいさっぱり消えるわけではなく、幸せに生きることができるようになるとも限らないということは理解しておく必要があり、どちらかと言えば、仏教はそちらの「避けることのできない苦」の解決を示すものであるということが言いたいのです。
老病死をはじめとした「避けることのできない苦」の克服としてブッダが辿り着いた答えは、「避けようとするから苦になる」という至極単純なものでした。老いることを受け入れる人にとって、老いは苦ではなく、老いることが受け入れられない人にとって、老いが苦になる。苦悩のメカニズムは簡単だったのです。
が、そのように執着を捨てて生きるのは決して易しくはありません。だから仏教は修行の宗教なんですね。執着を捨てて生きていくことが仏教における修行の基本であり、そのように生きることで「避けることのできない苦」を避けることなく、苦と共存することで安楽に生きることができることを説いたのでした。
SDGsが達成されても、仏教には本来の仕事が残っています。どれだけ暮らし振りが裕福になっても、なおも残り続ける苦。この苦が残り続ける人生をいかに安楽に生きるか。ここを説くのが仏教の本業であり、ここを疎かにしてしまったら本末転倒と言わねばなりません。
この仕事を忘れることなくSDGsの達成を目指すのなら、私も「仏教 × SDGs」に大賛成です。