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【禅僧の逸話】仙厓義梵が書いためでたい言葉 -祖死父死子死孫死-
私が暮らしている岐阜県美濃市に清泰寺というお寺があり、そこでかつて住職をしていた禅僧に仙厓義梵(せんがいぎぼん)がいる。
仙厓は藩の悪政を狂歌で風刺したことで国外に追放されてしまうが、そんなことは一向に気にもとめなかったという。そして後に博多の聖福寺に腰を据えた。
博多では仙厓禅師ではなく、「仙厓さん」と人々から親しまれ、洒脱な生き方と多くの逸話を残した。今回の話もその一つである。
あるとき、一人の檀家さんがお寺にやってきて仙厓を訪ねた。
何でも、床の間に飾るにふさわしい掛け軸がほしいとのこと。そこでめでたい言葉を一幅書いてほしいとの申し出であった。
仙厓はよしよしと快諾し、すぐに筆を執った。そして掛け軸に堂々と、
「祖死父死子死孫死」
の八字を書いたのだった。
「いや、仙厓さん、これ冗談ですか? いくら何でもこれはないでしょう。少しもめでたくないじゃないですか。こんな縁起の悪い軸を掛けている家なんてありませんよ」
客は当然納得がいかず、不平を口にした。
すると仙厓は飄々とした口調で答えた。
「まあまあ、よく考えてもみなされ。まず爺さんが死んで、次に父親が死んで、その次に子どもが死んで、最後に孫が死ぬ。この順番で人生を生きて死ぬことができたら、何も文句はなかろう。もし、この中の一つでも順序が入れ替わってみなさい。どれほど悲しみ苦しむことか。そうじゃないかね?」
たしかに、この順序で死ぬことができれば、ありがたいことである。
人は死ぬときが来れば死ぬ。もちろん若くして死ぬことだってある。それは腸(はらわた)をえぐられるような悲痛である。
子を亡くした親の悲しみは、あまりにも深い。
この軸の言葉は、単に長寿を願っているのでもない。
自分の命は自分の思いとは関係なく動いている。だから止まるときもまた、自分の思いとは無関係に止まる。
そんな自然の運行をどうにかして操り、長寿を願うようなことはしない。
ただ、自然の流れが、「祖死父死子死孫死」のように流れてくれたなら、それはまことにありがたく、めでたいことである。ブラックユーモアのなかに、豊かな人情を感じる言葉である。
客は仙厓の言葉を聞くと大いに納得し、大切にその墨蹟を抱えて帰っていったという。