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ブロアー革命とパラダイムシフト

マキタ ブロアー

ブロアー革命とパラダイムシフト


はっきり言って皆様にとってはどうでもいい話なのだが、ブロアーを買おうかどうか、ずっと前から迷っている。


ブロアーとはもちろん、冒頭の画像のように、屋外で使用する掃除機械のブロアーのことだ。強烈な風を吹き出して落葉などを吹き飛ばすあのスーパー機械を、公園や歩道などで清掃業者が使用している姿を見かけたことがある人は大勢いることだろう。


街暮らしの方にはもしかしたら無用の長物かもしれないが、田舎に暮らしている人にとっては外掃除の救世主となりえる可能性を秘めた画期的ハイパー機械で、私が暮らしている山村でも既にチラホラ所有者がいる。


場所や地面の形状にもよるが、たとえば1時間かけて箒で落葉を掃くところを、ブロアーならものの五分でできてしまう。しかも風で吹き飛ばすから箒に比べて落葉の取りこぼしが圧倒的に少ないし、箒では掃けない小ささの破片まで吹き飛ばせる。


屋外の掃除革命」と言ってしまって、もはやまったく過言でない。それほどに作業効率が段違いなウルトラ機械なのである(何度か使わせてもらったことがある)。


家とアスファルトばかりの街中では落葉を吹き飛ばしておしまい、というわけにはいかないだろうが、田舎は吹き飛ばしておしまいにできる環境が多い。何せ周囲は基本的に草むらだ。


唯一、掃除方法が「吹き飛ばす」といういささか原始的な方法であるため、細かな作業には適していないという弱点もあったが、その点もすでに克服されている。なんと、最近のブロアーにはメガトン画期的な機能が付いているのだ。それは……





吸塵機能。


これまで吹き飛ばすことしかできなかったブロアーが、なんとスイッチ1つで落葉を吸い込むようになる。これはもはや屋外で使う掃除機以外の何物でもない。しかもダイソンも真っ青の吸引力と言うから、もはや敵なし。


部屋の畳を箒で掃くのと、掃除機で吸い取るのとでは、作業時間においても綺麗さにおいても掃除機に軍配が上がることは疑いようがない。これが外の掃き掃除においても同様に当てはまる時代になったのである。


まあ、車を自動で運転させる技術を開発しているくらいなのだから、外で使う掃除機を開発することくらい何でもないことなのかもしれないが……。


それで、そんなにすごい機械があるならすぐに買えばいいじゃないかと思うかもしれないが、ブロアー導入に踏み切れないでいるのは、この分野におけるパラダイムシフトが未だ起きていないからだ。


私が二の足を踏み続けているのは、要するに「境内をブロアーで掃除している僧侶」に対して違和感を覚える人が多いであろうという懸念が拭いきれないからなのである。私だって少しは人目を気にしたい。


パラダイムシフトだなんて大袈裟な言葉を使う必要はまったくなく、単に「一般的でない」とか、「まだ受け入れられていない」とかでいいのだが、一度でいいからパラダイムシフトという言葉を使ってみたかった。だって、音の響きが格好いいんだもの。


だからあえて使わせていただくが、寺院境内掃除はまだ箒での手動掃除のパラダイムにあり、ブロアーというパラダイムには移行していない(と思っている)。


そもそもパラダイムシフトとは、「規範の遷移」を意味する言葉であり、社会の規範や価値観などの劇的な変化を指す。時代や社会において、常識的な考え方の枠組み(パラダイム)が、革命的に、あるいは劇的に大きく転換(シフト)することがパラダイムシフトである。


最近でいえば、マスクに対する人々の世界的な意識の変容は、まさにパラダイムシフトと呼んでいい転換であったように思う。


外の落葉の掃除は、これまで箒で掃くことが常識だった。しかしそこにブロアーという機械が登場し、革命的に、激的に、外掃除の在り方を変容させた。


ただしブロアーはまだ屋内で使用する掃除機ほど一般的な機械とは言えず、これから普及していくであろうという段階にある。つまり現在は、箒からブロアーへのパラダイムシフトの真っ只中である、というのが私の認識なのである。


この移行期に、どう動くのが最適なのか。早期にブロアーを購入し、多少冷ややかな視線を浴びつつもパラダイムシフトの一助となるように時代の前方を歩むべきか。


それとも、世間の感覚と足並みを揃えるために今暫く導入を我慢し、ブロアーに対して誰もが違和感を抱かなくなった頃合いをみてお寺にも導入し、時代を後方から追従するべきか。


うーむ。はっきり言ってどうでもいいことかもしれないが、学生時代に永平寺を訪れた際、建物に入って最初に目に飛び込んできたのが、パソコンに向かって仕事をしている何人もの僧侶の姿だったことに強烈な違和感を覚えた身としては、あのような違和感はなるべく無しでいきたい。


あのトラウマにも似た記憶が脳裏から離れないため、ずっと悩んでいるのである。どうする……どう判断するのが最適解なんだ……。


これは「本堂をルンバ(自動掃除機)で掃除する問題」ともよく似ている。


すでに本堂にルンバを放ち、掃除を自動化しているお寺は存在する。が、私の認識ではこれもまだ世間から許容されている範囲だとは思っていない。つまり、本堂掃除の手法は未だ手動掃除機のパラダイムにあり、ルンバ(自動)へはシフトしていない。


同じ機械でも、手動掃除機ならOKなのだ。本堂の掃除は箒でおこなわなければいけない、という認識はすでに過去のものとなり、掃除機で掃除することは普通のこととなっている(私の認識では)。箒から手動掃除機へのパラダイムシフトは、随分と前になされている。


掃除機は機械である。機械を、手動で動かすか、自動で動かすか。ルンバ問題の争点というか、両者の違いを挙げるならそれだけの違いのようにも思える。そうだとすれば、ルンバが常識化してパラダイムシフトが起きる日はそう遠くないかもしれない


普通でなかったものが、いつの間にか普通になっている。そういうことは何も珍しいことではない。身近な例を挙げるなら、メガネが好例だろう。


昭和におけるメガネのイメージは「ダサイ」か「ガリ勉」のどちらかだったが(筆者主観)、平成の中頃からメガネは一般的なものとして世間に浸透していった。もちろん令和となった現在においては、もはや違和感などもたれるはずもない。


ネックレス、腕時計、メガネ、みたいな並びで、人が普通に身につけるアクセサリーの1つとして、メガネはすでに立ち位置を確立している。なんなら、お洒落なアイテムの1つくらいの地位にすらある。メガネは現代において「普通」なものなのである。


しかし同じ顔でも、耳につける補聴器については今がまさにシフト中といった感じではないだろうか。以前、「耳のメガネ」というキャッチコピーが書かれたポスターをどこかで目にしたのを覚えているが、これは巧いと思った。目にメガネをかけることが普通なように、耳に補聴器を付けることも普通のこと。そんな時代なんだよと、意識のシフトを呼びかける端的的確なコピー。


現に、補聴器を付けている人を見ても、もう珍しくも何ともない。令和は補聴器がネックレスや腕時計やメガネと同列に並ぶ時代だ


したがってブロアーが世間に浸透するのも時間の問題と思われるが、境内をブロアーで掃除することの可否は、単にブロアーが一般的なものになるかどうかだけで決まるのではないという考え方もできる。では何が関係しているのかと言えば、「手を抜いている」「楽をしている」といった悪いニュアンスである。


これは本堂をルンバで掃除することのほうがより色濃く意識されるかもしれないが、便利な物を使うことで、その分楽をしようとしていると見られ、それが僧侶に相応しくないというか、お寺に似つかわしくないというか、そのように考える人もいることだろう。


が、しかし、やはりそれも「普通とは何か」「何が常識か」というパラダイムシフトと無関係ではない。


現に、僧侶であっても衣類の洗濯は洗濯機を使い自動でおこない、移動には車を使って速く楽に移動している。水を使うのにも水道の蛇口をひねるだけの楽なもので、川や井戸から桶で水を汲んでくるようなことはしていない。夜の明かりは電気であって、蝋燭に火を灯しているわけではない。楽をしていることが問題というのであれば、これら現代的な生活のすべてが問題視されなければおかしいことになる。


しかし僧侶が洗濯機で洗濯をしたり、車に乗って出掛けたりする姿を見て、違和感を覚える人がどれだけいるだろうか。おそらく、ほとんどの方はそれを普通のことと見て、特に何とも思わないことだろう。世間一般の感覚として、それらが普通な事柄だからだ。自分にとって普通なことを他者がしていても、それは普通なことであるから特に意識にも残らない。


つまり洗濯機のように、掃除も自動で行うことが普通の世の中になれば、誰もルンバに違和感を覚えなくなる、はずなのである。ブロアーも、それを使用することが普通の世の中になれば、誰もブロアーでの掃除に違和感など覚えなくなるだろう。かつてのメガネや洗濯機やエアコンやらがそうであったように、違和感を持たれるのは最初だけ。常識はシフトし続ける。


常識なんてものは、そもそもその程度のものである。時代や価値観といった外的な要因によっていくらでも変わっていくもの。気にするほどのことではない。


と、頭ではそう理解しつつも、事象の世界を生きる私はブロアーを買おうかどうか、いつまでも決められないでいる。