禅の視点 - life -

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サイコロは十人十色

サイコロは十人十色

サイコロは十人十色

高校生の時、学校で講演会が開かれたことがあった。講師は全国の刑務所を訪問して講演を続けている方で、受刑者にどのような話をしているのか、刑務所とはどのような場所なのか、そんな話を1時間聴いた。


講演の終わりのほうで、講師の方が歌(CD)を流すから聴いてほしいと言った。なぜ歌? 疑問が湧いたが、講師曰わく「この曲を聴くと、受刑者の多くは涙を流す」とのこと。そういうことなら聴いてみたいと意識を改めた。やや間をあけて、スピーカーから音楽が流れ始めた。


どのような曲だったか、今ではもうまったく覚えていない。が、その曲を聴いた時のことは鮮明に覚えている。なぜなら、涙が出そうになったのを必死に隠していたから。


もしあれが自分の部屋だったなら、きっと泣いていたのだと思う。けれども講演会場は高校の体育館。周囲にはクラスメイトらが大勢座っている。とてもじゃないが嗚咽を漏らしたり泣き顔をさらしたりできるような状況ではない。恥ずかしすぎる。だから必死でこらえた。


肝心の曲を覚えていないものだから何とも言えないのだが、何かこう、心に響くような歌だった。歌を聴いて涙を流したことなど一度もなかったから、何で泣きそうになっているのか、自分でもよくわからなかった。


時折下を向いたり、目が痒いような素振りをして涙を拭いてみたりといった小細工を駆使して、どうにかその曲を聴き終えた。おそらく泣きそうになっていることは誰にもバレていないはず。そう思ってさりげなく周囲を見回すと、ちょっと意外な光景を目にした。みんなつまらなそうな顔をしているのである。泣いている人どころか、泣きそうな顔すら見当たらない。


まあ、そりゃ、我々は受刑者ではないし刑務所にも入っていないから状況は違うだろうけど、何の感動もなし? 後ろに座っていたクラスメイトに「どうだった?」と確認してみると、どうっていわれてもなぁ、と困ったふうな顔をして「特に何も」と無感想の感想を述べた。そうか、何も感じなかったか。自分とのギャップに若干のショックを受けつつも、そういうこともあるわなと了承した。


講演が終わりクラスに戻ったあと、教壇に立った担任がおもむろに感想を述べた。
「正直、よくわからん講演だったな。みんなよく眠らずに聴いた」


……なんだそれは。この男は一体何を言っているんだ。それが講演会の総括か。別にあなたがそう思うのは勝手だが、それが正解の感想であるかのような言い方はやめてくれ。そうでない受け止め方をした人間もいるんだ。一緒にするな。


途端に気持ちが反発した。クラスメイトの一意見ならどんな内容でもいい。しかし教師は立場が違うだろう。自分の感想がすべてであるかのような錯覚を起こして、全員が自分と同じ感想を抱いたと仮定して話をするのが我慢ならなかった。


が、今になって思えば、特におかしな話でも何でもなかったのかもしれない。教師だからといって特別な人格者なのではない。警察官も、医師も、僧侶も、みんな同じ人間だ。外見は違っても中身は変わらずに「人間」である。特定の職業に就いているだけで精神の成熟に差があるかのような思い込みをしていた自分の認識こそが誤っていた。教師に過度な期待をするべきではなかった。


同じ話を聴いても、受け止め方は人それぞれ。ブッダも同じような言葉を残している。
「たとえ目的地までの道のりを教えたとしても、教えた道のとおりに歩くかはその人による」
全員を同じ目的地にまで辿り着かせるようなことは土台不可能なのである。仏教はドラえもんが四次元ポケットから取り出す「どこでもドア」ではない。相手をゴールにまで届けるのではない。


仏教にできるのは、正しい道を示すことだけ。歩くのが自分の足である以上、その歩みに他人が責任を持つことはできない。結局のところ、自分はどう歩くか、どう考えるか、どう感じたか、それだけなのである。だから仏教は地図にすぎない。目的に辿り着くための道筋が記された地図。


講演の感想も同じである。全員に期待した感想を持ってもらうことなど不可能。感想は人それぞれでいい。いいというか、そうでしかありえない。私のような感想が正しいわけではない。教師の感想が正しいのでもない。正しい感想などない。重要なのは何を学びどう活かすか。すべてはそこである。


各人がどう歩くかにまで責任は持てないとしたブッダの言葉には、深く頷けるものがある。実際に歩くのはブッダではなく、各人が各人の意思で歩くのだから。つまり自分の人生は自分の歩みにかかっている。何を聴こうが学ぼうが、それらを受けて歩くのは、どこまでいっても自分自身だ。


そんなことを考えるようになってから、人の意見をすべて受け入れるようになった。そもそも人はみなそれぞれ異なった思いを持っている。そう考えれば、同じ考えを求めるほうが無理がある。物事は常に多面体なのだ。サイコロのように、一の面があれば、反対の六の面がある。そのほかにも、二、三、四、五と。どの方向から物事を見るかによって、見える姿は異なる。真実というのは一面ではないということさえ忘れなければ、自分と異なる意見がむしろ貴重なものにすら感じられるようになる。多面体を構成する、新たな一面を知ることができたと。


十人十色とは、そこのところの真実をじつに端的かつ明瞭に示した優れた言葉だ。