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「メロンパンリリース・イン・THE永平寺」

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「メロンパンリリース・イン・THE永平寺」


メロンパンが好きだ。
好きで好きでたまらないというほどメロンパンに目がないわけではないのだが、「もし最後の晩餐でパンしか選べないとしたら、何パンをチョイスするか」という設問があれば、メロンパンと即答する。


それでも実際にメロンパンを購入するのはごく稀で、1年に数回あるかどうか。
しかも買う時というのは、コンビニに立ち寄った際に昼食の代わりに買うという程度のケースがほとんどで、小食な私はメロンパンを頬張りながらカフェオレを飲むのが最高に幸せ。
結局甘すぎて胃がモヤモヤするのが常だが、それでも年に数回はメロンパンを食べたい。


メロンパンはカリカリフワフワしている。
もちろんカリカリなのはドーム状の表面部分で、フワフワなのはその中身。
あのバランスがたまらない。
カリカリとしたあの甘いビスケット生地は、一体誰の発明なのか。
博士と呼ばせていただきたい発明者が誰であるかを、残念ながら私は知らない。


ドームの上部を区画整理するかのように縦横に溝が入っているのも、きっと博士の発明なのだろう。
そういえば東京ドームにも同じような溝がついていたような。
もしかしてドーム状のものに流行っている髪型みたいなものなのだろうか。
あるいはメロンパンへオマージュを捧げるつもりで東京ドームがメロンパンの真似をしたのかもしれない。




メロンパンで忘れられないのは、永平寺で修行をしていた時のことだ。
永平寺ではたまにおやつが配布されることがある
夜参(やさん)と呼ばれるそのおやつタイムは、おやつのゴールデンタイムである午前10時でも午後3時でもなく、夜の9時半ころに前触れもなく突然やってくる。


寝る前には食べ物を胃に入れないほうがいいといわれるが、もしそれがデマであったとしても9時半は遅い。
おやつを食べるに適した時間帯だとはとても思えない。


しかし空腹で飢えている雲水(修行僧)にとって、そのおやつタイムは砂漠のなかに突如として現れたオアシスのような魅力をまとっていた。
たとえ就寝1分前であろうが、いただけるものなら丼一杯いただきたいと願った。


おやつはどこからやってくるのか。
外部からの差し入れである。
全国各地のお寺から送られてくるケースが最も多く、それが分け合えるくらいの量になるとおやつタイムが開かれた。


稀に突如開催されるおやつタイムを、たいていの者は喜んだ。
外に喜びを出さなくても、心では飛び上がりたいほど喜んでいるのが容易にわかった。
誰もが同じ思いを抱いていたからだ。


おやつタイムで配布されるおやつは、チョコレートやビスケットといったいわゆる「王道のおやつ」的なものがほとんどで、ポテトチップスのようなスナック菓子はあまり姿を目撃しなかった。
個包装されているもののほうが配布するのに適しているから、もしかしたら事前に古参和尚によって取捨選択されていたのかもしれない。


永平寺で修行をしている雲水は、全国各地から集まってきている。
したがっておやつも全国各地から届く。
萩の月」という仙台の銘菓をはじめて食べたのもこの時だった。
販売している企業の商品紹介のサイトには、こう綴られてる。


萩の咲き乱れる宮城野の空にぽっかり浮かぶ名月をかたどった銘菓・萩の月


ドーム状であること。
黄色であること。
カリカリはないが、フワフワであること。


メロンパンの兄弟と言われても無条件で信じ込んでしまう萩の月の美味さには、控えめに言って度肝を抜かれた。
さすがはメロンパン似だけのことはある。
萩の月が銘菓であることが明らかになった以上、萩の咲き乱れる宮城野の空にぽっかり浮かぶ月が名月であることもおそらく間違いないとみた。


夜参でのおやつは必ず椀に入れられ、各人の量が均等になるように配布された。
大皿などに盛って好きなように食べてOK、とは絶対にならなかった。
その理由を説明されたことはないが、まあ、理由は1つしかないだろう。
トラブルを防ぐため」。


雲水を聖職者のように見ている方もいらっしゃるかもしれないが、そんなことは決してない。
未熟だから修行に来ているのであり、その未熟な雲水は極度に飢えている
これまでに「飢え」という状態に陥ったことのない未熟な若者らが未知の領域に足を踏み入れ、飢えを体感するとどうなるか。


欲っする。
強烈に食べ物を欲っする。
欲そのものが顔を出す。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ


もしこのような状態で大皿にお菓子が盛られていたら、奪い合いの修羅場となるかもしれない。
醜い。が、ありえない話とも言い切れない。


こんな怪物が我が腹の中に眠っていたのか……!? と空腹時の食欲には驚いたものだが、今になって思えば、自分の欲に気付けたことが永平寺に修行に行ってよかったと思う一番の収獲だった気もする


人間、ちょっと危機的な状況に追いやられれば、すぐに醜い欲が出るのだということを知れたのは、大袈裟でなく大発見だった。
自分にそのような欲はない、と、ただ気付いていないだけで人生を生きていたら、なんと薄っぺらな人生だったことかと思う。
そうならなくて本当によかった。




あるとき、夜参でパンが出た
段ボールの中にパンが詰め込まれており、1人1つとったら後ろの者に段ボールごと回すよう古参和尚から指示された。


部屋の後方に座っていた私は、このときばかりは前列に座らなかったことを悔やんだ
先頭の者からパンを取るのなら、どう考えたって先頭の者が有利だろう。
前に座る者ほど選択肢が多くなり、後ろに座る者ほど選択肢は狭まる。
残念だが、最後方に座った者には選択肢が残されていないかもしれない。
残り物には福がある」というが、仏の心で受け取っていただくしかない。


先頭の者が段ボールのなかを覗き込んだ。
まるで宝石を見ているかのような恍惚とした表情。
手を伸ばし、少しかきわける。
どのような種類のパンがあるか確かめているのだろう。
パンを食べることができるなんて夢にも思っていなかったから、その気持ちは痛いほどわかる。


が、次の瞬間に古参から怒号が飛んだ。
「テメェ選ぶなっ! 早くとって次に回せっ!」
ビクッと肩をすくめたかと思うと、即座にパンを一つ掴みとって、慌てて段ボールは次に回された。


それからは早かった。
パンを選ぶような時間はなく、まるでバケツリレーのようなスピードで段ボールがすみやかに授受され、段ボールが届いた一瞬の間に可及的すみやかにパンを取り出すという謎の競技が始まった。


明らかに誰もパンを選んでいない。
上にあるもの、あるいは手に掴んだものを取り出しているという感じで、ガサゴソという探りを入れる動きは一切見られない。
競技に取り組む選手の動きそのものだ。


それぞれが取り出したパンが何であるかに目を凝らしてみると、定番中の定番である「あんパン」や「イチゴジャムパン」、それからPascoが出しているスーパーでよくみるサンドールシリーズ、「ダブルメロン」「小倉&ネオマーガリン」「つぶピーナッツ」のようなものが多いことがわかった。


しかしその中に1人、いた。
他とは異なる黄色い円形の形状。
間違いなくメロンパンを掴み取った人物がいた……!!


まさかこんな山奥の栄養失調気味の永平寺でメロンパンを拝める可能性が廻ってくるとは。
こんなチャンスはおそらく二度と廻ってくるまい……!


メロンパンを掴んだ人物がいるということは、あの段ボールの中にはまだメロンパンが入っている可能性が高い。
そう思うと心が躍った。


パンを送る側にしてみれば、あんなに美味しいメロンパンをたった1つだけ混ぜてしまったら、必ず争奪戦が起こるに違いないという心理がはたらくことだろう。
だからメロンパンを1つだけ混ぜる、ということはありえない。
川の水が下流から上流へ流れるくらいありえない。


逆に、種類を多くしてしまうと争いの種になる可能性があるから、これはもうすべてメロンパンにしてしまおうと、私だったらそう考えるかもしれない。
メロンパンonly。
メロンパンの山。
メロンパンの海。


段ボールを開けたらメロンパンであった。段ボールの底が黄色くなった。
夢のような話ではないか。


段ボールは順調に私の位置へと近づいてきた。
多いのはやはりPascoのサンドールシリーズだ。
ランチパックは1つも入っていないようである。


ついに段ボールが私の前の前の者の位置にまでリレーされてきた。
私は静かに背筋を伸ばし、戦闘態勢に入った。


初めての競技ではあるが、後方という位置に座らせていただいたおかげでイメージトレーニングは完璧という自負があった。
右手で段ボールを受け取り、すかさず円形の黄色いパンを左手で掴み取る。
これだけの動きでいい。
これだけを如何に機械のようにすみやかに、そして川のせせらぎのように滑らかに行うかがすべての競技である。たぶん。


おそらくこの競技は、早いだけではダメなのだ。
スピードスケートではなく、むしろフィギュアスケート。
如何に自然に美しく、選んでませんよという雰囲気をまとって目的のパンを選ぶか
そこが要の競技なのだと思われる。


ただ早いだけだと、仮にメロンパンを掴むことができたとしても、「あいつメロンパンを狙っていたな」と勘づかれてしまう。
それではスマートさに欠ける。
それではダメなのだ。この競技は。


サンドールシリーズと違い、メロンパンに類似品はないから、段ボールの中を覗いた時にあれかこれかと迷うことはないはず。
だから私は選ぶことなくそれを掴む。
選ばずに掴む。
取る前からすでに選んでしまっているのでは?」と指摘されればぐうの音も出ないが、それでも掴む。


前の者に段ボールが渡った。
と、ここで信じられない出来事が起こった。
あろうことか、前の者がメロンパンを掴んだのだ……!


まさか、うそだろう。信じられない。
ここまで順調に流れてきて、あと一歩のところでメロンパンを掴むだとっ!? くっ!!


メロンパンへの愛を語らせたら、絶対に私はそなたに勝つ。
故にそのメロンパンは私のものだっ。
叫びたい気持ちを堪えて、私は走馬燈のごとく成り行きを見守った。


人生は思いどおりにならないもの。
ブッダはそうして「苦」を人生の基本に据えた。
だとすれば、このメロンパンについてもまた仏教に通じる何かがあるはずだ。


狼狽える私は、次の瞬間、またしても信じられない光景を目撃した。
前の者の動きが一瞬止まり、掴んだメロンパンを手放し、すかさず別のパンを取ったのである。


あっ、選んだ。
今の動き、100%選んだ


しかし、一体何が起こったというのだ? 
ブラックバスをキャッチアンドリリースするかのような今の動きを、仮に「メロンパンリリース」と名付けよう。


「メロンパンリリース」が起こることは、現代社会ではまずありえない。
なぜなら、メロンパンはパンのなかで一番美味しいパンだからである。
美味すぎるという最大の賛辞でもってしてもその美味さを讃えることはできず、したがって至高のパンとまで称されている。


そのメロンパンを手放し、いや「メロンパンリリース」して、別のパンを選ぶ。
そんなことはどう考えたって起こりえないはずの行為なのだ。
メロンパンが段ボールの中にあることがわかったのは僥倖であるが、如何せん解せない。


段ボールが回ってきた。
私はそれを右手で掴む。
中を覗く。
メロンパンがいる


……!!
まさか、そういうことなのか!?


ここに至って、私の脳にある一つの仮説が思い浮かんだ。
ブラックバスをリリースすれば、また次の者がブラックバスを釣ることができるようになる。
「メロンパンリリース」がなされれば、次の者がメロンパンを選ぶことができるようになる


つまり前の者は、他のパンを選んだのではなくて、メロンパンを他の者へ譲ったということなのではないか……!?
自分がメロンパンを掴んでしまったら、他の者はメロンパンを食べることができない。
すると一瞬の逡巡は、他者への慈悲だったというのか!?


土壇場でこんな心理戦が待っているとは。
なんと奥深い競技であることよ。


段ボールのなかにあるメロンパン。
これをスマートに掴むだけの競技だと思い込んでいた。
甘かった。
なぜもっと可能性を検証しなかったのか、自分の緩慢な姿勢が悔やまれた。


前の者の「メロンパンリリース」によって、競技の性格はがらりと変容した。
いや、正確には「勝負の本質が明らかになった」とでも言えようか。


私はそれまでこの競技を、いかに「選ぶことなく選ぶか」だと捉えてイメージトレーニングを重ねてきた。
けれどもそうではなかったのだ。


この競技の真の勝敗は、いかにメロンパンを最後の者にまでつなげるか、つまりは各人の心のなかで行われる「メロンパンリリース」こそが本質だったのである。


しかしながら、競技の本質を知った時、私に残された時間はあまりにも僅かだった。
思考する時間はもういくらも残っていない。
右手で段ボールを握ってしまっている以上、すみやかに左でパンを取り出さねばならない。


私は手を伸ばした。
目的地を失った左手は、まるで迷子の子どものように右往左往し、そして1つのパンを掴んだ
見ると、それは丸く、黄色い、萩の月の兄貴分と思しきパンだった。


無である。
喜びはない。
ただ無があった。


私は段ボールを次の者に回した。
段ボールは順次リレーされ、そしていただきますをして全員でパンをいただく時間となった。


美味い。
美味いぜ。
美味すぎる。


美味い三段階活用」を駆使しても伝えきれないこのメロンパンの美味さ。
まさにパンの王様たる味わい。
永平寺のなかであろうと、世俗であろうと、メロンパンの美味さは普遍であるという真理を悟った。


しかし無である。


メロンパンは最高の美味さであると舌が感知するものの、メロンパンを頬張る私の心の中には無が広がっていた。
そう、私は負けたのだ。


競技には勝ったが、もっと深いところで繰り広げられていた勝負に私は完敗した
私はメロンパンを掴んだのではなく、掴んでしまったのである。
メロンパンを最後まで渡しきることができれば、この競技は全員の勝ちだったはず。
しかし私は、そのリレーを断ち切ってしまった。
そして、負けた。


トランプで最強のジョーカーが手札に入っていて喜んでいたら、競技が「ババ抜き」だった。
例えとして成立していないが、もう何でもかまわない。
つまり、そういうことなのだ。


私は「メロンパンリリース・イン・THE永平寺」に負けたのだ。