禅の視点 - life -

禅語の意味、経典の現代語訳、仏教や曹洞宗、葬儀や坐禅などの解説

六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)と六識の意味

六根,六境,六識,仏教の認識論

六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)と六識の意味

仏教書を読むなどして仏教について学んでいると、けっこうな頻度で専門的な仏教用語と出くわす。
ある程度読み慣れて仏教知識が身についていけば、いちいち辞典等で意味を調べなくても読み進めていくことができるが、学びはじめたばかりの頃はそうもいかないことが多かった。


辞典を引いたら引いたで、今度は辞典に書かれている説明文の意味がわからず、
「辞典の辞典はどこじゃー!」
と、辞典に向かって叫びたくなるような衝動に駆られたことが何度もあった。
あの頃はまだ若かった……。


理解してしまえば特に難しい話ではないのに、なぜか当時はやたらとややこしく感じていた仏教用語として、私が思い出すのは「六根(ろっこん)」「六境(ろっきょう)」「六識(ろくしき)」。
この3つが一体何を意味しているのかよくわからないという方が私以外にもいるかもしれないので、今回はこの話をしてみたい。


難しそうなのは馴染みがなく紛らわしい漢字のせいであって、この記事を読んだ後にはきっと「気難しそうな顔をしたおじさんと話をしたら意外にもフレンドリーだった」という印象を持っていただけるのではないかと思う。
「気難しいと思っていたら、やっぱり気難しいおじさんだった」場合は、どうもすみません。


しかしながら、この「六根」「六境」「六識」は、仏教が認識というものをどう考えているかということを端的に示すものでもあるので、仏教を学ぶ上で知っておいて決して損はない。
いや、むしろこの認識論は1つの真実をうまく突いているので、仏教に興味がなくてもできれば知っておいていただけたら嬉しい。


繰り返しになるが、決して難しい話ではないので。


六根

まず六根だが、これは人間に具わっている6つの感覚器官のこと。
具体的に言うと、「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」「意」となる。
眼は視覚、耳は聴覚、鼻は嗅覚、舌は味覚、身は触覚、意は考える脳のはたらきのようなものなので、強いていえば意識となるか。


いわゆる身体の「五感」に、「意識」という第六感がプラスされたのが六根。
ちなみに「根」というのは感覚器官やその器官のはたらきを意味する言葉で、それが6種類あるから六根と呼ばれている。
なので「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」「意」はそれぞれ、「眼根」「耳根」「鼻根」「舌根」「身根」「意根」と言うこともできる。
六根(眼耳鼻舌身意),図説

六境

次に六境だが、これは六根(6つの感覚器官)が知覚する対象のこと。
感覚器官が6つあるので、それぞれの器官の対象も6つある。


眼は「姿」を知覚し、耳は「音」を知覚し、鼻は「匂い」を知覚し、舌は「味わい」を知覚し、身は「感触」を知覚し、意は「考える対象」を知覚する。
そして、それら6つの対象を専門的な言葉として一文字で示し、眼の対象を「色」、耳の対象を「声」、鼻の対象を「香」、舌の対象を「味」、身の対象を「触」、意の対象を「法」と名付けた。


したがって、六境とは感覚器官が知覚する対象となる「色」「声」「香」「味」「触」「法」の6つをいう。
六根と同様に、それぞれに「境」を付けて「色境」「声境」「香境」「味境」「触境」「法境」と呼ばれることもある。
六境(色声香味触法),図説


ちなみに物体を「色」と一文字で表現したのは、物体にはたいてい色が付いているため。
今でこそ透明な物体も多いが、たしかに考えても見れば物にはたいていの場合色が付いている。
面白い名付けだ。

六識

六根が感覚器官で、六境が知覚の対象で、残るは六識
それでこの最後の六識とは何なのかということなのだが、これは六根が六境を知覚することで生まれる「認識」のことを言っている。


たとえば「眼で物を見る」という現象が発生した場合(覚醒時は常に発生しているが)、感覚器官である眼(眼根)が物体(色境)を認識(眼識)することで、「眼識界」という眼の認識世界が眼前に広がる


この眼識界というのは、自分の眼が物体群を認識することではじめて生まれる1つの認識世界であって、眼をつむれば眼識界は消える。
つまり、眼と色(物体)が出会うことで「眼による認識の世界」が生まれるのである。


眼の認識の世界というのは、たとえば無声映画をイメージするとわかりやすいかもしれない。
無声映画には音がなく、匂いもなく、味もなく、感触もなく、思考はあるが、あとほかにあるのは眼による認識だけ。
これで思考を止めた状態を起こすことができれば、眼界のみの認識の世界となる
実際に思考を止めるのは難しいが、眼による認識だけで構成される世界、つまり眼識界というのはそういったもの。


眼以外もすべて同じで、耳と音が出会うことで生まれるのが、耳の認識世界(耳識)。
鼻と香りが出会うことで生まれるのが、鼻の認識世界(鼻識)。
舌と味が出会うことで生まれるのが、舌の認識世界(舌識)。
身と触(触れられるもの)が出会うことで生まれるのが、身の認識世界(身識)。
そして意識と考える対象が出会うことで生まれるのが、意の認識世界(意識)。
六識(眼耳鼻舌身意),図説


以上の六根と六境と六識の関係を表でまとめると、以下のようになる。

六根,六境,六識,表まとめ


根と境と識の関係

六根のなかの1つ、「眼」に関する「根」と「境」と「識」の関係を、下の写真で説明してみたい。

合掌造り,六根六境六識の説明

これは合掌造りの集落を映した写真だが、これが今自分の眼に映っている景色であると仮定していただきたい
つまり「今、自分は合掌造りの集落を見ている状態なんだ」と思い込んでいただきたい。


それで、まず、「根」である自分の眼は、当然写真には写っていない。
しかし景色が見れているということは眼が開いているということなので、とりあえず眼はあるということになる。
景色を知覚する感覚器官「眼(眼根)」がまずある


次に、自分の眼は景色のなかの何かを見ている。
合掌造りの三角屋根かもしれないし、小さく写っている人かもしれないし、風景全般かもしれない。
何でもいいが、とにかく眼は何か対象となる物体「境」を見ている。
眼が知覚する対象「色境」が眼の先にある


すると、見ている眼と、見られている物とが出会い、そこに眼の認識世界が生まれる。
何のことはない。風景を見ているという、ただそれだけのことである。
これをあえてややこしく説明すると、眼が「根」で、物が「境」で、眼による風景の認識が「識」となるというだけの話。


だから実際のところは難しい話ではなく、個人の認識というのはあくまでも感覚器官が対象を知覚することで生じているのであって、知覚なしに認識は生まれないということ。


ちなみに眼の「識」は眼識というが、眼識界ともいう。
「根」と「境」が出会ったところには、その感覚器官特有の世界が生じるので、「界」という文字を付けるのはなるほど理に適っていると思う。


ちなみにちなみに、これら六根、六境、六識のうち、六根と六境を合わせて「十二処」とよぶ。
さらには、六根と六境と六識のすべてを合わせて「十八界」とよぶ。


専門用語を覚える必要は必ずしもないが、仏教書を読んでいて「十八界」とか「六境」とかいった言葉が出てくることはよくあるので、この際だから覚えてしまってもいいかもしれない。

認識とは架空のもの? ただの錯覚?

それで、最後に重要な仏教の認識論が待っているのだが、今まで説明してきた六根と六境が出会うことによって生じる六識は、「感覚器官によって脳内に作り出された『虚構』でしかない」というのが、仏教の認識論である。


これは「舌」を例にするとわかりやすい。
ビールを飲むということで考えてみよう。


暑い夏に外で働いて、家に帰って風呂に入って汗を流した後にキンキンに冷えたビールを飲んだときの、
「くぅ~~~~」
というあの美味さ(私は飲まないが)、ビール好きにはたまらない一時だろう。


その時、その人はビールを「美味い」と認識していることになるが、これは「舌根」が「味境」と出会うことによって生まれた「舌識」という認識であるのは前述のとおり。


しかし、そうして生まれた「舌識」は、自分にとっての味の世界であって、普遍的な味の世界ではない
事実、ビールをただの「苦いだけの不味い飲み物」と認識する人は大勢いる。


すると、ビールははたして「美味い」ものなのか、それとも「不味い」ものなのか、どちらなのだろうか。
仏教は、どちらでもないという。
どちらも虚構であって、真実ではないと。


人が頭に生じさせる認識は、言ってしまえばほぼすべて虚構の認識であって、真実の認識ではない。
ビールの味の真実とは、「ビールはビールの味がする」というものであって、その味についての好き嫌いといった認識は、すべて個人的な虚構の認識なのである。


我々人間は認識を深めて自分という人間の独自性を構築していく生き物であるが、そこで構築していった認識は、すべて個人的な認識であって普遍的な認識ではないということを頭の片隅に保存しておいたほうがいいかもしれない。
つまり、真実とは自分の認識とは別にあるのだと。

否定される六根と六境と六識

『般若心経』では六根と六境と六識のすべてが、「じつは無い」ものとして否定される
物体は無常であり、精神作用も無常であり、認識されたものも普遍ではないから、十八界のすべてが「じつは無い」と見破る『般若心経』には非常に納得がいく。
やはりそれらは「あるようでない」虚構でしかない。


逆に、自分の認識を「絶対」と思い込むと、途端に他との軋轢が生まれることになる。
絶対ではないものを絶対と思い込んだ人同士が、どうにかして自分の絶対を通そうとすれば、そこにいざこざが生じるのは目に見えている。
苦も多分に生じてくることだろう。


「無駄な争いは誤った認識と、その認識に執着することから生まれる。
ゆえに真実を見、執着から離れよ
そうやってブッダが説き示す真理の一端は、六根と六境と六識といったところにもあらわれている。