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【禅語】法食同輪 ~修行でないことが世の中にあるだろうか~

永平寺,大庫院,法食同輪

【禅語】法食同輪 ~修行でないことが世の中にあるだろうか~

永平寺の七堂伽藍(しちどうがらん)の東に位置する巨大な建物、大庫院(だいくいん)
上の画像の建物がその正面である。
この大庫院は、永平寺で修行をする雲水たちの食事を作る台所となっている。
中で食事を作っているのは、もちろん雲水たちだ。



そんな大庫院には足が速いことで有名な韋駄天(いだてん)が祀られており、その左右には一対の(れん)が掛けれている。
聯というのは、漢詩などが書かれた長細い板のことで(必ずしも板に書かれている必要はないが板である場合が多い)通常一対で掛けられる。
寺院の柱に漢字が羅列された板が2枚掛けられているのを見たことがあるという方もいらっしゃることと思うが、あれが聯。
ちなみに下の画像は、うちの本堂にある聯のようす。左側のほうがわかりにくいが、右側の板と同じものが左の柱にも掛かっている。
禅語,本堂,聯


それで、大庫院の一対の聯には次のような漢詩が揮毫されてある。

 法食同輪永転山園之隆盛
 証修忘跡平増香閣之禎祥


訓読文にすると下のようになる。
法食輪ほうじきりんを同じくし、とこしなへに山園の隆盛を転ず
証修しょうしゅ跡を忘じ、たいら香閣こうかく禎祥ていしょうを増す


「仏道修行をする人と食事を作る人が同じ輪となり、永平寺はこれからもずっと栄えていく。
悟りだの修行だのといった差異を忘れ去ったところに、雲水全員の平等な幸せがある」

意味を訳せば、おおよそこのようになるだろうか。
この漢詩の冒頭に出てくる4文字が今回の禅語、法食同輪(ほうじきどうりん)である。

修行と食事

永平寺を開いた道元禅師は、食事に関して少々特別な思いを抱いていたようだ。
食事を特に大切にしたというか、食事を疎かにすることを強く戒めたというか、とにかく食事に関する思い入れが強かった
この禅語はまさに、そんな道元禅師の思いを代弁するかのような内容といえる。


法食同輪という禅語は、法と食、つまり坐禅や読経といった行い(法)と、食事を作ったりいただいたりすることに、優劣や上下などないということを言っている。
なんとなく私たちは、「仏道修行」というと坐禅などを思い浮かべ、「食事の仕度」というと裏方仕事のように捉えがちになるが、そうした考えを戒める言葉だということ。


いくら坐禅が重要だといっても、食事も摂らないで坐禅ばかりするのが正しい修行の姿勢かといえば、そうではない
それでは命を落とすだけ。
坐禅をするためには、きちんと食事も摂っていなくてはいけない。
どれだけ体にいいと言われる食べ物であっても、そればっかりを食べていたら不健康になるのと同じで、何事も極端に偏ってしまうのはよくない。


禅の修行もそれと同じで、日常生活のすべてが互いに関係しあうことで、はじめて正しい修行の姿があらわれてくることを念頭において修行をすることが求められる。
すべてが関係性の上に成り立っているのなら、そのすべてを等しく大切にしなければおかしいだろう
一方を重んじ他方を軽んじるという姿勢は、禅では特に厳しく戒められるポイントなのだ。
つまり、法と食は同等であるということ。


同輪という言葉は、車の両輪と考えるとわかりやすいかもしれない。
車は左右どちらか一方のタイヤだけで走るものではない。
あるいは、もし左右にタイヤがあっても、タイヤの大きさが左右で異なれば車は自然と曲がって進むことになる。


では、車が真っ直ぐ進むためにはどうしたらいいか。
簡単なことで、左右で同じタイヤを用いればいい。
法と食を等しく重んじるとは、いわば車の左右に同じタイヤを取り付けるということなのである。
そうすることではじめて、車も人も真っ直ぐ進むことができるというのが禅の基本であるというわけだ。

食事を軽んじてはいけない

大庫院に配属された雲水は、基本的に1日の中の大半の時間を食事の下ごしらえや調理等に費やしている。
法要などには出ずに、ひたすら食事の準備をしている。
人によっては、それは修行をする雲水のサポート役に回るということを意味していると受け取ることがあるかもしれないが、そうした考えを戒めるためにこの禅語が大庫院の前に掲げられていると言っても間違いではない。


食事を作るのが自分の役割であれば、それを全うすることが自分にとっての修行
もちろん食事だけではない。掃除も睡眠も日常生活のすべてがあって、それとともに坐禅や読経といった行いがある。
あらゆる行為が互いに関わり合うことで私たちは生きているのだから、そのなかのどれかを重視して他を軽視すれば生活は偏りはじめる。


食事というキーワードは、何も食事だけを特別視しているわけではなく、あらゆる日常的な行いの代表として食事をピックアップしているだけ
だから掃除でもよかったわけだし、別に睡眠でもよかったわけだ。
道元禅師が中国に渡って修行をしていたときに、たまたま禅寺の料理長にあたる典座(てんぞ)という役職の人から禅に関する示唆を受けた経験があったものだから、おそらく禅師は食事というキーワードをよく用いるようになったのだろう。
また当時の日本では、食事といえば下っ端の仕事というイメージが定着していたようで、そうした風潮のなかで法と食が同等であるということを発言することに、より意味があったのかもしれない。


特別なことが修行なのではなく、生活そのものが修行
それが禅の修行観であり、大庫院に掛けられている法食同輪の聯の説くところ。
行為には上下があり、役割には表と裏があるというような考えを持ち、修行と食事を別個に考えてしまいがちな雲水の目を覚まさせる一言ともいえるだろう。


永平寺を参拝された際には、ぜひ実際の大庫院の聯をご覧いただきたい。


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