禅の視点 - life -

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禅とは何か ~言葉の意味と仏教との関係~

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本題に入る前に、お礼の言葉を。


ブログを書き始めてから、はや1年。
在家から出家して、禅や仏教の考えるところが現代社会においてもはっきりと通用する「真実」を追求した内容であることを理解し、それをいかに伝えるか、発信するかを模索し、その手段の1つとしてブログを書くことを思いついた。
あれからもう1年が経ったのかと思うと、時間の流れは本当に早いものだと恐ろしくも感じる。
「光陰は矢よりもすみやかなり」
時間が過ぎ去るのは放たれた矢よりもはやいものだ、という禅語があるが、実際のところ過ぎてしまえば過去は一瞬の出来事とも感じられるものだから、「矢よりもはやい」という表現もあながち誇張ではない。


飽きやすい性格であるにも関わらず続けてこられたのは、読んでくださる方々がいたからだった
誰にも読まれないでも平気で続けられるほど私の心は丈夫でない。
ダメだと察知すれば止めていただろうと思う。他の方法を考えたかもしれない。
だからいつか必ずお礼を申し上げなければいけないと思っていた。


皆さまのおかげで1年間書き続けてこられました。
本当にありがとうございます。



禅とは何か

これまでの記事をざっと振り返ってみて、1つ気が付いたことがあった。
禅語や禅僧のエピソードや禅に関するあれやこれやを書いてきたが、そもそも「禅とは何か」という大元にふれていなかった。
大海を泳ぐ様々な魚のあれこれについてばかり気をとられ、「魚とは何か」という根本を見据える視点を見失っていたとは。これぞまさに、灯台もと暗し。
まあ、根本にあるものほど単純そうに見えてじつは説明が難しいということは事実としてあるわけだが、厳密に専門性を高めて記述する必要もないだろう。
なので今回の記事は1周年記念としてふさわしい、そもそも「禅とは何か」について。


禅という言葉は、サンスクリット語の「ディヤーナ」、パーリ語の「ジャーナ」の漢訳である。サンスクリット語とはインドに古くから存在する由緒正しい言語で、パーリ語はその俗語。
日本でいう標準語と地方の方言みたいな関係と大雑把に考えていただければいいと思う。
サンスクリット語の俗語はいくつもあるが、なかでもパーリ語はもっともサンスクリット語に近い俗語といわれている。
日本の標準語にもっとも近い方言とは、どこの地方のものだろうか。少なくとも、関西や東北や沖縄では独自性が強すぎる気がする……。やはり、関東あたりとなるのだろうか。
ちなみにブッダの言行録とも言える上座部経典は俗語のパーリ語で書かれている。


このパーリ語の「ジャーナ」という言葉の音を聞いて、昔の中国の人は漢字に訳す際に似た発音をする漢字をあてはめた。それが「禅那(ぜんな)」という言葉である。ここから「那」が落ちて、禅という言葉は生まれた。
だから「禅那」という言葉自体には、じつは意味がない。音が似ているというだけである。このように発音をそのまま写した訳を音訳といい、その反対に意味で訳すことを意訳という。
一口に漢字に訳すといっても、そこには大きく2つの方法が存在するわけである。


それで、重要なのはもちろん意訳のほうなのだが、中国ではジャーナという言葉を「静慮」「(じょう)」「思惟(しゆい)」などと意訳した。
これらはすべて精神の統一をあらわす言葉であり、今日でいう瞑想と同じような意味である。
つまり禅とは、一言でいえば瞑想を意味する言葉となる。
ちなみにサンスクリット語にはサマーディという言葉もあり、これは三昧(ざんまい)と音訳された。何かに没頭するような状態を「〇〇三昧」とよぶ、あれである。意味はジャーナとほぼ同様で、やはり精神の統一を指す。

仏教の3つの柱

禅の意味が精神の統一、瞑想にあるのは上記のとおりだが、それは仏教を構築する3つの柱のうちの1本でもある。
仏教には「三学(さんがく)」とよばれる大きな柱が3つあるのだが、その1つが「定」、つまりは瞑想なのだ。
ほかの2本は「戒(かい)」と「慧(え)」で、これに「定」を合わせた「戒・定・慧」を三学と呼んでいる。


「戒」というのは生活指針のようなもので、早い話が規範である。
僧侶や仏教徒は「戒」にのっとって生活することがふさわしいと考えられていた。いわゆる戒律のことだ。
「慧」というのは真実について考える頭のはたらきのことである。智慧ともいう。
一般的に「ちえ」という言葉には「知恵」という漢字が用いられるが、仏教では知恵と智慧を完全に区別して用いている。
たとえば、人を騙して金儲けをする妙案を考える頭のはたらきは知恵(悪知恵)とも呼ばれる。
しかし智慧は、人を騙して金を得て、それで本当に幸せなのかを考える頭のはたらきを指す。
つまり、真実を考える頭のはたらきが智慧であり、計算をする頭のはたらきが知恵というわけだ。


智慧とは別名「悟り」ともよばれ、悟りを開くこと、すなわち智慧の眼を開くことが仏教における最大の目的とされてきた。
禅においてもそれは例外ではないのだが、あえて禅の特徴は何かと考えれば三学でいうところの「定」を重視する教えと考えることもできる。
「定」とは前述の、ジャーナの意訳の「定」と同じで、精神の統一の意である。
ただし三学はそれぞれ別個に存在しているわけではなく、互いに関係しあいながら存在しているから、そもそも分けて考える必要はあまりないのだが。

体験を重視する禅

禅という言葉からその意味を探ろうと思えば、禅とは瞑想であるという結論が導き出される。
しかし禅という一文字に内包されるものはそれだけではない。もう1つ大きな顔がある。
それは、歴代の禅僧たちが大切にしてきた禅の「ある点」に着目するとよくわかる。
すなわち頭でっかちになることを戒め、体験重視の教えであるという側面だ。


禅の特徴をズバリとらえた言葉に「不立文字(ふりゅうもんじ)」という禅語がある。
真実とは文字や言葉で会得できるものではない。必ず実体験としてそれを体得せよ体解せよという意味の言葉であるが、この禅語がやはり禅の特徴を説明するにはぴったりである。
詳しくは下の記事をご一読いただきたい。
www.zen-essay.com



禅は仏教から発生した実践哲学のようなものであって、真実を悟ることと等しい価値観で、真実を体現することを主題としている。
仏になることを目指すと同時に、仏として生きることを目指しているのである
仏という不変の存在を想定せず、仏として生きる時、人はみな仏であるという考えのもの、仏として生きていくことを根本に位置付けていることでもある。
このあたりが、智慧を開くだけでなく体験としての「定」を重視する禅の特徴であり、「禅とは何か」の答えにあたるのではないかと思っている。