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坐禅と座禅の違い - なぜ正しいのは「坐禅」のほうなのか? -

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坐禅と座禅の違い - なぜ正しいのは「坐禅」のほうなのか? -

……別にどっちでもいいよ、そんなこと。


と、呆れる方もいるかもしれないが、たぶん世の中の禅宗僧侶の大半は相当に違和感を覚えているものと察するので、やはり一度はっきりとお伝えしておきたい。
「ざぜん」は、「坐禅」と書くのが正式であり、「座禅」ではない。これはもう文献上、完全に明らか。


「广」はいらないのだ!


最近はいろんな場所で坐禅会が開かれている。
寺院で行われることもあるが、駅に近い場所や、ビルの一室など、本当にいろいろな場所で坐禅が行われているようである。
身と息と心を整えて坐る坐禅を多くの方に行じていただけるのはありがたいことで、今後も普及していってくれればこんなに嬉しいことはない。


ただ、それくらい現代は、あえて求めなければ得られないほど心の平安がなくなっているのかもしれないのかと考えると、喜ばしい気持ちに急に暗雲が立ちこめてきたりもするのだが……。

認知度の高い「座禅」表記

そんなわけで、基本的には喜ばしい坐禅の広まりなのだが、妙な気がかりが1つ。
そう、「ざ」に当てる漢字を「广」のついた「座」とし、「座禅」と表記している場合が少なくないのだ。


禅宗寺院ではよっぽどこの混同は起こらないが、世間一般ではけっこう「座禅」が認知されているようなのである。
ちなみに、Googleの検索数ツールで調べてみたところ、両者の1ヶ月間の検索数には約9.3倍の開きがあった
多いのは……「座禅」のほう。


まさか、市民権を得ていたのは「座禅」のほうだったとは……。無念。


これでは認知されているどころか「座禅」が主流ではないか。
「ざぜん」を漢字変換したらトップに出てきたのが「座禅」の文字だったからそのまま「座禅」で検索した、という理由もあるだろうが(そうであってほしい)、それにしても由々しき事態である。


「坐」と「座」の違い

坐禅と座禅の違い、つまりは「坐」と「座」の漢字の成り立ちの違いについてまず述べておきたいのだが、そもそも「坐」と「座」は意味に違いがある。
「坐」は坐るという動作を指しており、「座」は坐る場所を指しているのである。


だから電車のなかで動き回る子どもを注意する一文を書く際は、
「ちゃんと座席に坐りなさい!」
と表記するのが、意味の上から考えれば本当は正しい。


漢字発祥の地、中国ではこの違いがあたりまえに守られていたのだが、日本では後世になって「坐」と「座」が同様の意味とみなされるようになり、座ることに関するなら何でも「座」が用いられるようになった。


まあ、「ちゃんと座席に坐りなさい!」の一文のように動詞として坐る場合なら、「座る」でもいい。
実際のところ、私だって単に「座る」だけならなら「座る」と書く場合が多い。
いたずらに事を荒立てるつもりはない。


ただ、名詞を変えるのはダメではなかろうか。名詞は。
昔から「坐禅」という、そういう名前だったんだから。
意味あってずっと「坐禅」と表記してきたわけなのだから、その点、もう少しこだわったほうがいいのではないか。


 「坐」は坐るという動作を指しており、「座」は坐る場所を指している


「广」(まだれ)の意味

「广」は「まだれ」と呼ばれるが、「广」は屋根からおおいが垂れている形を表している。
つまりこれは建物を意味する文字なのである


庁、宅、庄、床、店、庫、庵……まだ他にもいろいろあるが、やはり「广」には建物を示す漢字が多い。
もちろん「座」もこれらの漢字と同じ仲間で、屋根のある建物を意味し、転じて坐る場所を示す漢字となっている。


一方の「坐」は、土の上に人が坐っている姿を表した漢字である。
インドでは、熱い日差しを避けるために木の下の地面に腰を下ろし足を組んで瞑想をすることが尊ばれたが、そんな動作を表したのが「坐」という漢字なわけだ。


座禅と書けば、座禅をする場所を意味するのであって、坐禅をすることを意味しない。
坐禅をすることを伝えるなら、「坐」禅でなければならない
坐禅会が「座禅会」と表記されてはいけない端的な理由は、これである。

坐禅が座禅と表記されるようになった理由

にも関わらず、坐禅が座禅と表記されるようになってしまった原因は何なのか。
一説では、単純に「坐が常用漢字ではないから」だと言われている。


「坐」が常用漢字ではないから、常用漢字である「座」のほうをあてた……だと!? そんな強引な理由があるだろうか。
もしこれが本当なのだとしたら、とんでもないことになる。


常用漢字でないから偏(へん)や旁(つくり)を変化させて強引に常用漢字にしてしまうという手法がアリなのだとしたら、たとえば「閏年(うるうどし)」を「潤年」と表記しても問題ないことになってしまうではないか。
「4年に一度」というよりも「例年より雨が多そうな年」に思えるではないか。


ほかにもある。
たとえば「阿吽の呼吸」の「吽」だって、常用漢字ではないから「牛」にしてしまえばいいのか?


阿牛の呼吸」という文字をみたら、
「んっ? 何か違わない? この2人、絶対に阿吽の呼吸できてないよね?」
と、誰もが違和感を覚えるに違いない。


もしくは坊さんを示す「僧侶」という漢字だって、常用漢字外で見慣れないから「僧呂」にしてしまえば、それでいいのか?
「呂」とは脊椎が連なるさまを表しており、平たく言えば背骨でしかない。
そこに人偏の「亻」が加わって、はじめて「とも」を意味するようになる。生きた人になる。


もし本当に「常用漢字ではないから」が理由なのだとしたら、驚きだ。

人は名前にこだわる

人は自分の名前を大切にし、少しでも間違っていると違和感を覚える。
「渡邊」なのに「渡辺」や「渡邉」と書かれると、違うと言いたくなる。


禅宗僧侶が「坐禅」の表記にどうしてもこだわってしまう一番の理由は、これと同じようなものだと思える。
つまり、禅宗にとって坐禅とは一番の核になるものであり、禅宗の代名詞と言えば坐禅。
なのに、その坐禅の漢字が後世になって勝手に変わるというのは、名前を間違えられているような感覚に近いということ。


「坐禅」という表記が染みついてしまっているものだから、一般の方々よりも「座禅」に対して過剰に違和感を覚えるのかもしれないが、もっとも大切にしていることの名前だけに、素通りもできない。


できれば「座禅」ではなく「坐禅」と書いていただきたい。
そして、坐禅をしてみていただきたい。



追記

「坐」⇨「座」への変化は誤用や混同などではなく、国語審議会での決定をうけた上で「座」の字に「座る動作・場所」の両方の意味を持たせた故の結果だという有益なコメントをいただき、リンクも教えていただいたので、詳しく知りたい方はご一読ください。
ただ、どちらにしろ名前を変えるのはいかがなものか。