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山崎元氏の「『墓なし・坊主なし』の弔いをやってわかったこと」の記事を読んだ

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コラム:「墓なし・坊主なし」の弔いをやってわかったこと

ダイヤモンド社のビジネス情報サイト「ダイヤモンド・オンライン」に、「山崎元のマルチスコープ」というコラムがある。
その名のとおり、経済評論家の山崎元氏がマルチな視点であらゆるニュースを取り上げて解説をするのだが、今回は
「墓なし・坊主なし」の弔いをやってわかったこと
という、私にとっても非常に気になる内容。
読んでみたところ、特段突っ込んだことは書かれていなかったが、むしろその論調の自然さに共感を覚えた箇所も多く、人を弔うということと仏式葬儀について改めて考えるきっかけになった。


つい数日前に父親を亡くされた山崎氏自身の実体験をもとにした文章で、現代における葬儀の在り方の一方向性が端的に示されている。
私はもともとお寺に生まれたわけではなく、在家者であったためこのような感覚に違和感を覚えない。
共感を抱く上で、さらに今度は出家者としてもう少し別の視点から葬儀を考えている。
興味があればぜひ元のコラムとともに御一読いただきたい。
http://diamond.jp/articles/-/109622
↑コラム:「墓なし・坊主なし」の弔いをやってわかったこと

高すぎる葬儀費用

このコラムでは、山崎氏が自身の父親を特定の宗教に依ることなく、家族の手で弔った課程と、その時に感じられたことが丁寧に綴られている。
記事を書いた動機について山崎氏は、
「いずれの宗教にも入信しない場合や、何らかの宗教への信仰心はあるものの、現実の宗教ビジネスがあまりに商業的であって、端的に言ってお金が掛かりすぎることに納得できない場合に、筆者の家族のようなやり方があることをお伝えしておきたい」
としている。


やはり、か。
仮に執筆者が経済評論家でなくても、費用の問題は看過できないものだろう。
既存の葬儀の在り方を問う声は多いが、間違いなくその大半の矛先は費用に向けられている
なぜ何十万、何百万という費用がかかるのか。
支払わなければならないのか。
意味がわからない。
まさに、端的に言ってお金がかかりすぎている。


費用のなかで、われわれ僧侶に関わるものといえば、お布施
以前にもお布施については述べたが、布施とは本来自発的に行う善行であって、間違っても対価や費用ではない
対価や費用ではないから、金額は施主の想いでかまわないのであり、むしろ想いでなければ本義と照らし合わせた際に問題である。
www.zen-essay.com


布施の金額を寺院に訊ねても
「お気持ちで大丈夫ですよ」
「お志で結構ですよ」
と答えられて、結局金額に悩んだという話はよく聞くが、布施である以上、金額の設定を寺院側が規定することはできない。
本当に、施主各々が決めていただければそれで問題ないのだ。
それで問題があるという寺院がいたら、問題なのはその寺院であって施主ではない。
私は、お布施の金額の問題は、布施という考え方の意味を知っていただくことで、ある程度解消できるのではないかとも考えている。


また、寺院によっては、いろいろな事情を考慮してあえて金額の設定に踏み切っているところもある
その判断自体は一概に否定できるものではないことはわかっているが、その際に定めた金額を「お布施」と表記することだけは誤りであると言わざるをえない。
それは布施の意義を歪めることになってしまうからだ。
「葬儀料」なり何でもかまわないが、布施ではなく費用であることを示す必要が、そういった寺院にはあるだろう。

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無宗教での弔い

「無宗教だが、先祖に対する親しみや感謝の念は大いに持っている」
そう山崎氏が述べるように、無宗教であっても先祖に対する親しみや感謝の念は、当然のことながら多くの人が持っている。
それは必ずしも信仰心を必要とする心情ではないのだから、当然と言えば当然であるともいえる。
先祖を供養したいという思いは、信仰でも宗教でもない
それ以前の、人としての心である
特別な心ではなく、むしろあたりまえに具わった心の発露とみたほうが自然だろう。


死を弔うことは、生を見つめ直すことにつながる。
三人称の死を、一人称の死として受け止めることで、人は死を考え、生を考えるようになる
生きて死ぬこの不思議としか思えない自分の人生の意味を問おうとする契機になる。
仏教において葬儀が重要な意味を持つのは、その観点が存在するからだ。
葬儀式だけが、仏教における葬儀の意義ではないのである。


ブッダは、たとえば仏教徒になりなさいとか、改宗しなさいということを説いたのではなかった。
「世界を成り立たせている物事の道理、つまりが本当に正しいあたりまえの真実を知ることで、人はずっと楽な心で生きることができる。苦という感情は、あたりまえの真実をただしく理解しないことから起こる現象なのだから」
そう人々に説いて各地を遍歴した人物であった。
意外に思われるかもしれないが、原始仏教は信仰ではない。
信じるのではなく、「正しいことに眼を向けなさい」と説かれ続けた教えである。


ブッダは自身の死の間際、泣きすがる弟子に向かって、自分が死んだ後に何を頼りとすべきかを明確に残していった。
それは2つある。
1つは、自分の人生を生きている、自分自身
すべての大元は自分であって、他者ではない。
無論、超越者のような神を信じることでもない。
「自分の人生を生きているのは誰か=自分である」
この単純な図式を決して忘れてはならないと言い残していったのである。


頼りとすべきものはもう1つあって、それが真理である。
真理とは、あたりまえに存在する本当に正しいこと
それは、正しいかどうかわからないことを信じることではない。
無宗教であること、つまり何も信じないことと仏教とのあいだに摩擦は生じないのだ。
それは同時に、無宗教であることと故人を弔うことのあいだにも、仏教的観点からみて摩擦は生じないことをも意味している。

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葬式仏教

生と死は表裏であり、それらは別のものではないとする仏教の考え方からみれば、葬儀の際だけに仏教が顔を出すのは明らかにおかしい。
葬儀を契機として生を問う方向へと遺族とともに進むことができればいいのだが、もし寺院側が葬儀だけを目的としたら、それは仏式葬儀ではあってももはや仏教ではない。
つまり仏式葬儀自体を否定することはないが、「葬儀だけを行う仏教=葬式仏教」に批判の声が上がるのは必然だということである。
生につながらない限り、仏教であるとはいえないのだから。


われわれ僧侶は、あるいは寺院というものは、ちょうど病院を求めて患者が来院することと同じように、寺院や仏教を必要とする方が来訪されたときに、その方々に寄り添う存在であることが重要なのだと思っている。
寺院にいかに人を呼び込むかが現代の課題であると僧侶の間では度々話題になることがあるが、私はそうは思わない。
病院が健康な人に来院を呼びかけることはないだろう。
まあ、健康診断という例外もないではないが。
それはひとまず置いといて、寺院が発信するべきは「苦悩の対処法」という流れに沿うものであって、人を呼ぶことが目的ではないはずだ。
どれだけ多くの方が寺院に足を運んだとしても、それが単なる観光等であれば本末転倒である。


山崎氏は自身の経験をもとに、今回の父親の弔いをこう結んでいる。
「宗教及び『宗教ビジネス』を介在させなくとも、心のこもった弔いはできるし、先祖を思い出して感謝する生活をすることができる」
この意見に異論はない。
心のこもった弔いや感謝に必要なのは、当人のそのような心であって宗教ではない
鍵は心という自分の内側にあるのであって、外側にある何かではない。
我々僧侶は、そのような遺族の心が仏教を求めた際に応じるべき存在であり、そのために平素から葬儀の意味や仏教の考え方を示しておく必要がある。


今回のコラムに僧侶という視点から一言付け加えさせていただきたいのは、仏教の目指しているものはあくまでも死を通じての生であって、死で終わるものではないという点だ。
つまり葬儀だけが葬儀の目的ではないのである。
仏典のなかに、死の弔い方を記した文章などごく僅かしか存在しない。
仏教は生きることを説いた教えである。
死と表裏であるところの生を問い、人生について考えていくことに僧侶自身が意識を及ばせることがなければ、それは仏式葬儀ではあっても仏教の葬儀ではなくなってしまう。
葬儀をとおして、亡き人を弔うことをとおして、死から生を問い直したいのである

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遺体は恐ろしいものではない

最後に、コラムのなかで、
「遺体の様子はまるで普通で、恐ろしさや、おどろおどろしさは一切なかった」と述べ、その理由を
線香の臭いなどがないのが、良いのだろう
と断定する一文が出てくるが、これにだけは待ったをかけさせていただきたい。


身内の遺体に恐ろしさを感じたという遺族の方々からの吐露を、私はこれまでに一度も耳にしたことはない。
聞こえてくるのは、その姿が「いつもと変わらない」「普通に眠っているよう」だと感じられたとする声ばかりであり、その言葉の奥には遺体となっても故人への親しみがあることが容易に理解できた。
もちろん、どなたの故人の枕元にも線香は供えられていた。


親しい者の死を恐れと感じる心性が存在しないとは言わないが、人が身近な人物の死に際して抱く感情は、おそらくそれらとは別の想いである。
二度と言葉を交わすことの適わない身内に相対して、自分の想いと過去の思い出を共有することができなくなったことを知り、これが死というものかと思い知るとき、想起されるのは恐れなどではなく、感謝と後悔である気がする。
あの時、ああ言っておけばよかった。
結局、言えないままで別れてしまった。
伝えそびれた言葉を故人に伝えたくて、人は遺体となった故人の傍で一時を過ごすのかもしれない
そこに恐れがないのは、ごく自然なことではないだろうか。